ランボオ夫人は十六歳の妹娘ヴィタリを連れてロンドンに駆けつけた。その頃ヴィタリが「日記」をつけていたおかげで、彼女たちのロンドン滞在の細部を知ることができる。ランボオ夫人と娘は、一八七四年七月五日にシャルルヴィルを出発して、翌日ロンドンに着いている。ランボオはアージル・スケーア一二番地に手頃なホテルをみつけておいた。そのホテルに感嘆してヴィタリは書く。「どこもかしこも、じゅうたんが敷いてある、……」数日、ランボオは議事堂、シチイ、テームズ河などの市内見物に母親たちを案内する。夕方、彼女たちはくたくたに疲れて帰ってくる。そんな風にして三日を休むと、ランボオはまた大英博物館の閲覧室へ勉強に出かけて、夕食だけに帰ってくる。暑くて、ヴィタリは言いようのない憂鬱のとりことなった。「わたしの悪い気分はひどくなる。もの悲しい想いにとりつかれる。寂しくなって、ひとりで泣けてくる……」
七月十一日土曜日、母親は三つの勤め口をランボオに示すが、彼はそれらをはねのける。そこで母親は、息子が就職してもしなくても次の週には帰る決意をする。
十六日木曜日、状況は変らない。ヴィタリは悲観する。「兄さんがどうしても職に就かないなら、とても不幸になるでしょう。ママンはとても悲しがって、すっかりふさぎ込んでいる」
二十三日木曜日、母親たちは相変らず動けない。ヴィタリは我慢できずに書く。「就職の口があるのだから、兄さんがその気になれば職に就けて、わたしたちは帰れるのに」
二十七日、こんな状況のなかで、ランボオは母親たちといっしょに大英博物館へ行き、一八六八年に死んだエチオピア皇帝テオドロス展を見る。皇帝の王冠、豪華な服装、武器類、宝石類が陳列されていた。ガラスのケースの中には原稿や彩色挿画のある書物があった。カタローグにはその彩色挿画が「イリュミナシオン」としるされていた。
母親たちはもうこれ以上ロンドンにとどまってはいられなかった。暑さはひどくなって、ヴィタリはしのぎやすい夏のシャルルヴィルを恋しがり、ランボオ夫人は絶えず悲しみに閉ざされていた。
ついに七月二十九日、ランボオは朝の九時、いらいらした暗い顔をして、夕食には帰らないと言って出かけるが、まもなく戻ってきて、明日出発すると告げる。
彼は覚悟をきめて翌日出かけてゆく。一八七四年七月三十一日の「日記」にヴィタリは書く。「まるで息もつまるような想い。アルチュール兄さんは四時半に出発した。悲しそうだった……」――このさりげない言葉には、兄を見送った妹の、何か知ら悲壮な哀惜がある。「あんなに朝早くランボオはどこへ行ったのか。──信頼できる行先はスカーブラである。この町はロンドンの北東三八〇キロにある港町で、海水浴場でも知られている。『イリュミナシオン』のなかの「岬」という詩は、このスカーブラの町を精確な写真のように描いており、詩のなかにも「スカーブロ」というその地方の省略した呼び名が使われている。したがってランボオがこの町に滞在しなかったとは考えられない。
また、ロンドンからオクスフォードの方へ六〇キロほど離れた小さな町レージングに、ランボオがいたという形跡がある。一八七四年十一月七日と九日の「タイムズ」紙につぎのような広告が載った。
「きわめて高い文学的および語学的教養に富み、会話に優れたパリジャン(二十歳)が、南方あるいは東洋の諸国への旅行計画を有する紳士《ジェントルマン》(とりわけ芸術家)あるいは家族のお伴を希望。身元証明あり。A・R、レージング、キングス・ロード一六五番地」
ランボオの手によって訂正を書き加えられたこの広告文の草案はのちに発見されて、いまはシャルルヴィルのランボオ博物館に保存されている。しかし、「タイムズ」紙の広告にはなんの反応もなかったらしい。まもなくランボオはシャルルヴィルへ帰る決心をしたからである。
一八七四年のクリスマスを、彼は家族といっしょに過ごしたと考えられる……。
(つづく)
(新日本新書『ランボオ』)
七月十一日土曜日、母親は三つの勤め口をランボオに示すが、彼はそれらをはねのける。そこで母親は、息子が就職してもしなくても次の週には帰る決意をする。
十六日木曜日、状況は変らない。ヴィタリは悲観する。「兄さんがどうしても職に就かないなら、とても不幸になるでしょう。ママンはとても悲しがって、すっかりふさぎ込んでいる」
二十三日木曜日、母親たちは相変らず動けない。ヴィタリは我慢できずに書く。「就職の口があるのだから、兄さんがその気になれば職に就けて、わたしたちは帰れるのに」
二十七日、こんな状況のなかで、ランボオは母親たちといっしょに大英博物館へ行き、一八六八年に死んだエチオピア皇帝テオドロス展を見る。皇帝の王冠、豪華な服装、武器類、宝石類が陳列されていた。ガラスのケースの中には原稿や彩色挿画のある書物があった。カタローグにはその彩色挿画が「イリュミナシオン」としるされていた。
母親たちはもうこれ以上ロンドンにとどまってはいられなかった。暑さはひどくなって、ヴィタリはしのぎやすい夏のシャルルヴィルを恋しがり、ランボオ夫人は絶えず悲しみに閉ざされていた。
ついに七月二十九日、ランボオは朝の九時、いらいらした暗い顔をして、夕食には帰らないと言って出かけるが、まもなく戻ってきて、明日出発すると告げる。
彼は覚悟をきめて翌日出かけてゆく。一八七四年七月三十一日の「日記」にヴィタリは書く。「まるで息もつまるような想い。アルチュール兄さんは四時半に出発した。悲しそうだった……」――このさりげない言葉には、兄を見送った妹の、何か知ら悲壮な哀惜がある。「あんなに朝早くランボオはどこへ行ったのか。──信頼できる行先はスカーブラである。この町はロンドンの北東三八〇キロにある港町で、海水浴場でも知られている。『イリュミナシオン』のなかの「岬」という詩は、このスカーブラの町を精確な写真のように描いており、詩のなかにも「スカーブロ」というその地方の省略した呼び名が使われている。したがってランボオがこの町に滞在しなかったとは考えられない。
また、ロンドンからオクスフォードの方へ六〇キロほど離れた小さな町レージングに、ランボオがいたという形跡がある。一八七四年十一月七日と九日の「タイムズ」紙につぎのような広告が載った。
「きわめて高い文学的および語学的教養に富み、会話に優れたパリジャン(二十歳)が、南方あるいは東洋の諸国への旅行計画を有する紳士《ジェントルマン》(とりわけ芸術家)あるいは家族のお伴を希望。身元証明あり。A・R、レージング、キングス・ロード一六五番地」
ランボオの手によって訂正を書き加えられたこの広告文の草案はのちに発見されて、いまはシャルルヴィルのランボオ博物館に保存されている。しかし、「タイムズ」紙の広告にはなんの反応もなかったらしい。まもなくランボオはシャルルヴィルへ帰る決心をしたからである。
一八七四年のクリスマスを、彼は家族といっしょに過ごしたと考えられる……。
(つづく)
(新日本新書『ランボオ』)
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