刊行のことば ──多くの友情を謝して── 鈴木初江
四十九年目の八月が間もなくくる。ことしの八月は更に追憶の頁が加わることになるだろう。「死んだ人との約束は守らなければならない。死者は破ることがないのだから」といったのは二年前に亡くなった土屋二三男氏。その言葉が妙に私のなかに沈んでいる。
昨年十月、埼玉飯能病院のベッドで、長田さんはペン、私は言葉で「燕」以後の詩をまとめようと話しあった。長田さんは「八月までにだして頂けたら」とかいた。八月六日の原爆、七日は第七回上田平和音楽祭。私はしっかりとうなづいた。「大丈夫よ」と。それが遺稿集として出すことになろうとは。
長田さんの病状は十二月半ばごろから悪化したようだ。生きる力がなくなりました"死だけを考えます"というハガキが続いた。私は病院に駆けつけた。狛江と飯能は、新幹線で名古屋へ行くより遠い。ナースに聞いたら「食事を召上らないんです」という。不安になって「食べなければだめよ、気力がなくなるから」と強くいったが、私は帰宅後手紙をかいた。"反戦反核をめざすものは最後まで生きることを考えねばならない"と。
歳暮迫って『十二月二十八日医療センターに移りました"のハガキがきて正月早々とんでいった。十二月は食べることができるのに自ら食べなかった(と思った)。今度は肉体的条件が食べることを拒否した。点滴の連続である。肺の出血が呼吸を犯さないことを祈るばかり。一月末の彼は酸素マスクのままもはや筆談の力はなかった。別れる時握った手は柔らかく、ドアを離れる時ふり返ると彼はうるんだ眼で合掌していた。それが最後だった。
二月五日の午後若生武男さんから、長田さんの死を伝えられた。その夜更け私はひとり通夜の酒を汲みながら、涙は流れるに任せた。しばらくは仕事が手につかなかった。
僅か十余年のおつきあいであったが、土屋さんと同様、私の生の最後までの友人であり同志である。そんな思いが深くなる。
遺稿集の整理をしていて十年前の「第四回反戦・詩人と市民の上田集会」の資料を読み返すと、長田さんがその成功にいかに情熱を傾け献身したかが痛いほど伝わってくる。それは彼の反戦反核への希求の深さであろう。講演者も今は亡き藤原定氏を始め大島博光、長谷川龍生、森田宗一、増岡敏和氏や地元の故人となった小崎軍司氏など、補助椅子を何度もだすほどの盛況、熱気溢れるとはこのことをいうのであろう。長田さんを支える人々の心の結晶のように思えた。彼をとりまく友情の輪はまことに大きく厚い。「燕」出版の際もそれは充分あらわれていた。そして詩人以外の人の協力が大きかったことも。
十年経つと日本の政治情勢はいよいよ好ましからざる方向に進み、長田さんの反戦反核の思惟は止むことなく高揚した。『詩人はもっと敏感な反応を示さなければ"、ペンと言葉でそんなやりとりを度々した。近藤芳美賞になった。歴史より教へらるるはただ一つ人は歴史につひに学ばず"には長田さんの押え切れない怒りがこめられている。
切ないまでの反戦反核の志は、長田さんの血潮のようにも思える。戦場の惨(むご)たらしさ、被爆─そこには愛する肉親もいた。それらを背負いながら長田さんの思惟は、人間として生き得るための戦争悪へのたしかな視点、思想はヒューマンな前進を遂げつつあった。(彼の詩はそれらの全面的全身的表現である。詩についてはいつか改めてかくことがあると思うが)彼の思想は生そのもの―強靱な意思を支えるものはつつましさとはじらいのナイーヴな精神ではなかったか。時にみせるはげしさは、二つのものの相克であったかもしれない。
それはまた、反戦反核の思想は彼の眼を、日本人の心に疎かにされていた"アジア"へ向かわせたこと、今ようやく南ア自身の再生と世界の目がアフリカへ大きく開かれてきたことと合わせて、彼は人間の未来への、希求と信頼に満ちていたことを特筆したい。私はこの遺稿集の題名を「目をアジアに」の彼の詩からとることにした。
長田さんと私との交友は、彼の反戦反核の志にあるといっても過言ではない。したがって他のことは殆んどしらない。血縁について彼が話した(かいた)のは、娘さんが大学院を出て助手になった、ということだけだったが、その時の彼の顔はすなおな喜びに溢れていた。
私は思いだす。詩の先輩深尾須磨子がよく口にしていた言葉を。「私がどう生きたかではない、私が何を志していたか、をしっかり受けとめてほしい」と。長田さんもそう願うのではないだろうか。もちろん生き方と志がバラバラでいいというのではない。しかし人間の生活には、他のふみこめないものやどろどろしいものがつきまとうこともある。超克への道程をたどりながら志を貫こうとしたであろう長田さんの"生"を大切にし、真に悼むのであれば反戦反核の思想を、いかに私たちの人生に根づかせ広げるかにあるのではないだろうか。
最後に私はかいておきたいことがある。彼は「戦争に反対する詩人の会」の世話人であったが、所属に必ずそのことを明記していた。おそらく彼は誇りをもって記したのではないかと思う。
一九九二年出版の詩集「燕」は、彼への私の友情の贈りもの、そしてこの遺稿集は、上田在住の内田貞夫、金沢道弘、杉山洋子氏らを始め山の友人若生武男氏は本書に入れることができた「太郎山のお地蔵さん」という詩を、長田さんが太郎山の頂上で朗読したという思い出とともに送ってくださった。またわだつみ会の前副理事長中村猛夫氏、梅靖三氏、地中海信濃支社の鈴木直臣氏、構想の会清野竜氏、旧友石井茂氏など、詩人の池田錬二、増岡敏和、山岡和範氏など、その他多くの方の惜しみなき協力があったからこそ、出版することができたと思う。「燕」の時と同様「稜線」同人の安在孝夫氏に、今回も校正をお願いしたことと併せて皆様の友情に深い感謝をささげます。長田さんへの限りなき哀悼をこめ、この遺稿集が、人間の哀しみと尊厳をしるすべての人に読んでもらいたい、と切に願うものです。
1994年6月
※詩とエッセイの殆どは「稜線」と「反戦のこえ」に掲載されたもの、短歌とエッセイのなかには同工異曲のもの(同表現も)があり、短歌は酷似のものは省きましたが、エッセイについては大方そのままであることをご諒承下さい。なお誤りがありましたらど訂正などお願いできたら幸いです。
(『長田三郎遺稿集 目をアジアに』)
四十九年目の八月が間もなくくる。ことしの八月は更に追憶の頁が加わることになるだろう。「死んだ人との約束は守らなければならない。死者は破ることがないのだから」といったのは二年前に亡くなった土屋二三男氏。その言葉が妙に私のなかに沈んでいる。
昨年十月、埼玉飯能病院のベッドで、長田さんはペン、私は言葉で「燕」以後の詩をまとめようと話しあった。長田さんは「八月までにだして頂けたら」とかいた。八月六日の原爆、七日は第七回上田平和音楽祭。私はしっかりとうなづいた。「大丈夫よ」と。それが遺稿集として出すことになろうとは。
長田さんの病状は十二月半ばごろから悪化したようだ。生きる力がなくなりました"死だけを考えます"というハガキが続いた。私は病院に駆けつけた。狛江と飯能は、新幹線で名古屋へ行くより遠い。ナースに聞いたら「食事を召上らないんです」という。不安になって「食べなければだめよ、気力がなくなるから」と強くいったが、私は帰宅後手紙をかいた。"反戦反核をめざすものは最後まで生きることを考えねばならない"と。
歳暮迫って『十二月二十八日医療センターに移りました"のハガキがきて正月早々とんでいった。十二月は食べることができるのに自ら食べなかった(と思った)。今度は肉体的条件が食べることを拒否した。点滴の連続である。肺の出血が呼吸を犯さないことを祈るばかり。一月末の彼は酸素マスクのままもはや筆談の力はなかった。別れる時握った手は柔らかく、ドアを離れる時ふり返ると彼はうるんだ眼で合掌していた。それが最後だった。
二月五日の午後若生武男さんから、長田さんの死を伝えられた。その夜更け私はひとり通夜の酒を汲みながら、涙は流れるに任せた。しばらくは仕事が手につかなかった。
僅か十余年のおつきあいであったが、土屋さんと同様、私の生の最後までの友人であり同志である。そんな思いが深くなる。
遺稿集の整理をしていて十年前の「第四回反戦・詩人と市民の上田集会」の資料を読み返すと、長田さんがその成功にいかに情熱を傾け献身したかが痛いほど伝わってくる。それは彼の反戦反核への希求の深さであろう。講演者も今は亡き藤原定氏を始め大島博光、長谷川龍生、森田宗一、増岡敏和氏や地元の故人となった小崎軍司氏など、補助椅子を何度もだすほどの盛況、熱気溢れるとはこのことをいうのであろう。長田さんを支える人々の心の結晶のように思えた。彼をとりまく友情の輪はまことに大きく厚い。「燕」出版の際もそれは充分あらわれていた。そして詩人以外の人の協力が大きかったことも。
十年経つと日本の政治情勢はいよいよ好ましからざる方向に進み、長田さんの反戦反核の思惟は止むことなく高揚した。『詩人はもっと敏感な反応を示さなければ"、ペンと言葉でそんなやりとりを度々した。近藤芳美賞になった。歴史より教へらるるはただ一つ人は歴史につひに学ばず"には長田さんの押え切れない怒りがこめられている。
切ないまでの反戦反核の志は、長田さんの血潮のようにも思える。戦場の惨(むご)たらしさ、被爆─そこには愛する肉親もいた。それらを背負いながら長田さんの思惟は、人間として生き得るための戦争悪へのたしかな視点、思想はヒューマンな前進を遂げつつあった。(彼の詩はそれらの全面的全身的表現である。詩についてはいつか改めてかくことがあると思うが)彼の思想は生そのもの―強靱な意思を支えるものはつつましさとはじらいのナイーヴな精神ではなかったか。時にみせるはげしさは、二つのものの相克であったかもしれない。
それはまた、反戦反核の思想は彼の眼を、日本人の心に疎かにされていた"アジア"へ向かわせたこと、今ようやく南ア自身の再生と世界の目がアフリカへ大きく開かれてきたことと合わせて、彼は人間の未来への、希求と信頼に満ちていたことを特筆したい。私はこの遺稿集の題名を「目をアジアに」の彼の詩からとることにした。
長田さんと私との交友は、彼の反戦反核の志にあるといっても過言ではない。したがって他のことは殆んどしらない。血縁について彼が話した(かいた)のは、娘さんが大学院を出て助手になった、ということだけだったが、その時の彼の顔はすなおな喜びに溢れていた。
私は思いだす。詩の先輩深尾須磨子がよく口にしていた言葉を。「私がどう生きたかではない、私が何を志していたか、をしっかり受けとめてほしい」と。長田さんもそう願うのではないだろうか。もちろん生き方と志がバラバラでいいというのではない。しかし人間の生活には、他のふみこめないものやどろどろしいものがつきまとうこともある。超克への道程をたどりながら志を貫こうとしたであろう長田さんの"生"を大切にし、真に悼むのであれば反戦反核の思想を、いかに私たちの人生に根づかせ広げるかにあるのではないだろうか。
最後に私はかいておきたいことがある。彼は「戦争に反対する詩人の会」の世話人であったが、所属に必ずそのことを明記していた。おそらく彼は誇りをもって記したのではないかと思う。
一九九二年出版の詩集「燕」は、彼への私の友情の贈りもの、そしてこの遺稿集は、上田在住の内田貞夫、金沢道弘、杉山洋子氏らを始め山の友人若生武男氏は本書に入れることができた「太郎山のお地蔵さん」という詩を、長田さんが太郎山の頂上で朗読したという思い出とともに送ってくださった。またわだつみ会の前副理事長中村猛夫氏、梅靖三氏、地中海信濃支社の鈴木直臣氏、構想の会清野竜氏、旧友石井茂氏など、詩人の池田錬二、増岡敏和、山岡和範氏など、その他多くの方の惜しみなき協力があったからこそ、出版することができたと思う。「燕」の時と同様「稜線」同人の安在孝夫氏に、今回も校正をお願いしたことと併せて皆様の友情に深い感謝をささげます。長田さんへの限りなき哀悼をこめ、この遺稿集が、人間の哀しみと尊厳をしるすべての人に読んでもらいたい、と切に願うものです。
1994年6月
※詩とエッセイの殆どは「稜線」と「反戦のこえ」に掲載されたもの、短歌とエッセイのなかには同工異曲のもの(同表現も)があり、短歌は酷似のものは省きましたが、エッセイについては大方そのままであることをご諒承下さい。なお誤りがありましたらど訂正などお願いできたら幸いです。
(『長田三郎遺稿集 目をアジアに』)
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