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長田三郎の上田での15年──太郎山登山・学習塾経営・反戦詩人の会

ここでは、「長田三郎の上田での15年──太郎山登山・学習塾経営・反戦詩人の会」 に関する記事を紹介しています。
 詩人長田三郎が上田で暮らした15年は、学習塾を経営しながら太郎山に登り、反戦詩人の会の世話人として平和音楽祭などに取り組んだ時期でした。
 杉山洋子さんが同人誌の長田三郎追悼特集で書いています。
    ◇    ◇    ◇    ◇
「教育学とは真に子供を守り育てる学問である。」といわれる長田教授は一九六一年に亡くなるまで「原爆孤児精神養子運動」などに献身的にとりくまれ、三郎氏は父君と共に活動されつつ児童文学者の道を歩まれたという。
 さて、その三郎氏は上田に住み上田原の駅前にミネルバという学習塾を構えておられた。十余年前世話人をされていた「戦争に反対する詩人の会」のつどいが上田で開かれ、そこで知り合ったのが最初である。六十を少しすぎたくらいのお年の割りには老けてみえた。しかしかなりシャイで、少年のようにはにかんで話す姿は皆に好感を与えた。七年前、長野の平和音楽祭に行ってきて感激した人々が喫茶店「木の実」に集まって「上田でも平和音楽祭をやろう。」となったとき、三郎氏と私もそこにいた。おっちょこちょいの私は、事務局を引き受けさせられ、パンフレットやポスター作りにとびまわることになった。(略)そのときはじめて毎日太郎山へ登っているということをおききした。
 毎朝三時には起きてロシア文学の翻訳をやり六時になったら朝食をとって登山靴ででかけるという。上田原の駅前から山を目ざしてテクテク。年間登山日数二五七日は、たしか太郎山最多登山回数として表彰されたのである。太郎山の帰りは郵便局へより、本屋へよりして、午後三時ころミネルバへかえる。四時ころからは勉強に来る子供達の相手をしている。という生活ぶりであった。かなり熱心な塾の先生であったらしく一九九一年に彼が脳出血で倒れた時面倒をみてくださったのは子供達の親たちであった。
(略)
 脳出血で右半身不自由になって鹿教湯で療養していた三郎氏は喉頭ガンになり新宿の国立医療センターで手術をされ声を失われた。しかし精神は強靭でますます冴えわたり、毎年病院のベッドの上から詩やPKOや世界情勢を憂慮した長文のメッセージを送ってくださり、実行委員長の役を立派に努めてくださっていた。お元気でガンなど克服しているかにみえたのに、昨年お兄さんがとつぜん亡くなられ、大変ショックをうけられたときく。十二月から点滴だけで命をつなぐ状態、ついに二月五日を迎えてしまったのである。
 ところで病床の三郎氏にある日突然若々しい奥様と大学院生である娘さんが現われたのである。
 仙人に妻子がいたような感じでびっくり仰天したのであるが、安心もした。
  大学院に受かりましたと吾娘の声
       電話にはずむ春雷の朝
親としてのこんな歌ものこされている。
(以下略)

(杉山洋子「長田三郎氏のこと」『稜線』51号 1994.7)

太郎山


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