FC2ブログ

ブブノワ女史と長田三郎

ここでは、「ブブノワ女史と長田三郎」 に関する記事を紹介しています。

ブブノワ女史は戦前と戦後、早稲田大学文学部でロシア語を教えた名物講師で、たとえばロシア文学者の上田進も多くの影響を受けたといいます。(<人間上田進について> 短かい生涯 秋田雨雀)
 長田三郎も戦後、ブブノワ女史の講義をうけて影響を受けたことを長谷川七郎が「長田三郎をいたむ」で書いています。なお、長田は一高在学中に出征したが、通常一高では繰上げ卒業の扱いをしたが「長田さんは必らず復学するから在籍のまま兵役に服したいと云って、戦後に予定通り一高に復学された。これは異例のことで長田さんの自慢の一つであったようだ」(内田貞夫「長田三郎氏を悼む」)

    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇

 長田が敗戦後復員し私大のロ文科に入学し「デカブリストの妻」を訳した谷耕平や同じロシア語の講師ブブノワからプーシキンの「オネーギン」の朗読の指導をうけその美しいロシア語の発音を通じて、はじめて詩のリズムとハーモニーに触れたと述懐している。
 ローマン的な傾向をこのむわたしは、アナトール・フランスやメリメとともにプーシキンの小説は愛読してきたが、「オネーギン」や「ルスランとリュドミーラ」の物語り詩をすじを追う読物としてたのしむことはあっても厳格な韻を踏む詩として取り組んだことはなかった、「オネーギン」の本文だけでも五千三百行余の大部である。プーシキンの詩をいく分か読み返した動機は、長田にならったわけではなく、わたしの友人の詩人で、長田と同じ学校でロシア語を学んだ、草鹿外吉のプーシキン詩集の訳業によるものである。(プーシキン全集全六巻中、一巻、六三〇頁を占める、抒情時、物語詩<河出書房新社>)草鹿も近年死んだ。
 長田の詩を形成している方法の特性には韻文的なものと朗読性が色濃い、語学の修得を主とした戦前の旧制高校時代、ドイツ人講師ベッオルトから、ハイネの詩の朗読を、復員後の大学では、ロシア人、ブブノワからのプーシキンの詩の朗読をと、感受性の強い時期での長田が受けた影響は当然であったろう。
 各人の資質によるものであったろうが、長田より十年年上のわたしが詩にかかわった時期は与謝野鉄幹らの朗詠調の韻律詩から、すでにフリーヴァースの自由詩の時代に入っていた。

 一九六四年の夏、北コーカサス以来二〇年の友人であるオデッサ大学のガッカエフ夫妻からの招待でわたしども夫婦は黒海周遊の旅をした、ヤルタでモスクワに向うガッカエフ夫妻と別れ、わたしどもは黒海航路の終点に近い、いま民族独立問題でゆれているアブハジア自治共和国のスフミに向った。スフミで数日をすごし、バルト三国に行く予定であったが、悪名高い政府機関のトラブルにあいスフミにしばらく足止めされ、その後モスクワ経由で日本に直送されるように措置された。
 日本で三十六年間も暮らし、老後を黒海の保養地のここスフミで隠世している程度のブブノワ姉妹の消息は知っていたので、無聊の一日を割いて訪ねることを思いついたが、昼は海水浴、夜はバーでのグルジアワインにかまけて、ついに果さなかった、ブブノワは死ぬ三年前に生地のレニングラードに帰り九十七才の長寿を全うした、その後ブブノワの日本の風物を素材にした水彩画を特集したソビエトの代表的月刊美術雑誌がとどいた。
(以下略)

(『稜線』51号 長田三郎追悼 1994.7)

少女

関連記事
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/4241-85695f89
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック