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人間変革について(上)

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 人間変革について
                     大島博光

 一九一一年(明治四十四年)、タクボクは「はてしなき議論の後」という詩で、革命詩人のはげしい調子と、いち早い先駆的な直感のするどさとをもって、つぎのように歌った。

 われらの且つ讀み、且つ議論を闘わすこと、
 しかしてわれらの眼の輝けること、
 五十年前の露西亜の青年に劣らず。
 われらは何を念すべきかを議論す。
 されど、誰一人、握りしめたる拳《こぶし》に卓をたたきて、
 V NAROD! と叫び出ずるものなし。

 われらはわれらの求むるものの何なるかを知る。
 また、民衆の求むるものの何なるかを知る。
 しかして、われらの何を為すべきかを知る。
 実に、五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。
 されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
 V NAROD! と叫び出ずるものなし。

 ここにあつまれる者は皆青年なり。
 常に世に新らしきものを作り出だす青年なり。
 われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
 見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しさを。
 されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
 V NAROD! と叫び出ずるものなし。

 ああ、蠟燭はすでに三度も取り代えられ、
 飲料の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、
 若き婦人の熱心に変りはなけれど、
 その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり、
 されど、なお誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
 V NAROD! と叫び出ずるものなし。

 ほぼ四十年まえに、タクボクが歌ったこのなげきと、なにか、わたしたちのえりくびをとらえて、はげしく責めたてるような、このひびきは、こんにちなお、わたしたちの胸をたたき、ゆすぶる。「ウ・ナロード!──人民のなかえ!人民となれ!」と。
 ただはてしない議論をくりかえすばかりで、「民衆のなかえ!」という実践の情熱を叫ぶものが一人もいないことをなげき、責めているこの詩は、ほかならぬタクボクの実践への情熱を、熱っぽく、あつく、たたえている。そのゆえにこそ、この詩はいまなおわたしたちの胸をたたき、わたしたちを実践へとかり立てるのである。
 タクボクがこの詩をかいた時代にくらべれば、こんにちの時代はまったく、おどろくべき変りかたをしている。タクボクの時代に、遠くのぞみ見られた夜明けの最初の光りは、その後荒れくるう反動の嵐に、暗くおういかくされ、ひきちぎられたが、こんにち、それは人民革命として、現実に、かがやきだしている。人民の新しい歌ごえは、いたるところに、わきあがりつつある。こうした革命の進行のなかで、「ウ・ナロード!」という合言葉は、いよいよ具体的な内容をもち、いっそう現実的な課題をはらんで、わたしたちの耳にひびく。詩の革命、抒情の変革、新しい叙事詩の創造、というような問題まで、この合言葉にむすびついて、はじめて現実的なものとなることができる。なぜなら、それらの新しい詩の課題、とくに抒情の変革は、それだけきりはなされた問題ではなく、抒情の主体である人間の変革の問題とわかちがたく、ぎりぎりにむすびついているからだ。

 「ウナロード! ──人民のなかえ! 人民となれ!」というこのことばは、とりもなおさず、新らしい人間になれ、新らしい社会主表的な人間になれ、ということだ。そうして、このような人間変革は、ただ実践をとおしてのみ可能だということだ。いくら、社会主義の本をよんだり、革命の理論をきわめても、書斎のなかにとじこもっていたのでは、あたまは変るかも知れないが、人間ぜんたいは変えられはしない。もちろん、理論はたいせつだ。しかし、理論はそのものとしてたいせつなのではなく、それがわたしたちの肉となり血となり、新らしい美しい行為を生むゆえに、たいせつなのだ。理論もまた、このような実践によって、きたえられ、深められ、新らしく発展することができる。そうして、わたしたちにとって問題なのは、この践をとおして、生きたシンゾウと血をもった人間ぜんたいを契革するということだ。これはまったく、なまやさしいことではない。わたしたちはたくれたニッポンのブルジョア社会に、ゆがめられ、ひんまげられ、傷つけられてきた人間である。いまなお、たえず、あらゆる手だてによって、ゆがめられつずけている人間である。くちに近代をとなえ、近代的な市民をよそっているが、わたしたちのどこかには、今なお、封建性の、近代ドレイの、サルのしっぼが根ずよく残っている。
 アラゴンがつぎのように語ったことばは、わたしたちには、いっそうはげしい程度に、あてはまる。アラゴンは人間変革の問題にふれて、つぎのようにいっている。「われわれは、ちょうど人類史であのサルが人間に進化した時代と、どこか似かよった時代に生きている。すなわち、人間によって人間がサクシュされる、階級社会の人間から、階級のない社会の人間えと変りゆく時代にいる。プロレタリアートは、かつてない偉大な歴史的事業をくわだてつつある。それは、階級社会における社会的なサルを、未来の社会主義的人間に変えるという大事業であり、人間による人間の再教育である。いまや、この大事業は、ソヴェートにおいて、ボルシェビーキたちによって進められつつある。」と。わたしたちの人間変革も、このような社会的なサルから、社会主義的な人間に変わってゆくことにかかっている。この一大事業」は、しかし、現実の政治の革命によってカずよくおし進められるが、革命が完成されて、はじめて人間変革がはじまるというようなものではなく、革命の進行とともに、人間変革も徐々に進んでいるのであり、また進められねばならない。
こうして、人間処革の問題は、現実にすすんでいる革命からきりはなしては考えられないし、革命とむすびついて、はじめて人間の変革もねこなわれうる。そうして、「ウ・ナロード!」ということは、こんにち、現実の人民革命の隊伍のなかにくわわれ、ということにほかならない。人民の、ブロレタリアートの、日常闘爭にくわわる、その実践をとおしてのみ、人間の獎革は現実的にすすみ、そうして、抒情の変革もおしすすめられる。近代詩の名のもとに、近代的自我をうたうと稱して、書齊にとじこもって、けっきょく、小ブルジョア個人主義をまもっているかぎり、人間変革も抒情の変革もおこなわれないだろう。いまや、詩の革命もまた、それが革命の詩であることによってのみ、前方え、おしすすめられるのだ。(つづく)

(『歌ごえ』2号)

舟

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