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書評 大島博光著『ランボオ』 その反抗と幻滅との現場を 服部伸六

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書評 大島博光著『ランボオ』 その反抗と幻滅との現場を

                            服部伸六

 「大島博光は一貫してランバルディアンだった」と、簡単に言うことはできるかもしれない。しかし、その意味するところは、それほど簡単ではない。五年にも充たないフランスの少年詩人の詩的体験を、五十年もの長きに亘って追経験するということは、しかく簡単でもなければ、単純でもないのである。
 比較してみるがいいのである。ランボオの「地獄の季節」を初めて日本語で紹介した小林秀雄は、その誤訳を恥ずることもなく、そのあと手にいれた名声の上にあぐらをかいて、その栄光に包まれて生涯を終えた。
 しかるに、真にランバルディアンである大島博光は、これも秘かなランボオ研究者だった師西条八十の期待(?)にも拘らず「不肖の弟子」(大島博光全詩集「香もない花束」参照)として、師とは別な道をえらんだのだった。五十年の長い年月をかけて、ランボオが指し示した「詩人」の道に忠実であろうとしたのである。

 もちろん、その道は平坦ではなかった。口ーラン・ドゥ・ルネヴィルにならってランボオのうちに神秘家を認めたこともあるらしい。また大島が春陽堂文庫から「地獄の季節」を出したのは、あれは昭和十年ごろだったと記憶するが、その時点では、今度出た本のようなランボオ解釈は、まだ萌芽として出ているにすぎない。つまり、大島はこの本で「形而上学的なランボオ解釈」や「合理的に読んだり、そこにレアリズムを読みとる」ことを拒否したりする今までのランボオ観にハッキリと訣別を告げたのである。これが、五十年の体験を経た上での結論であった。
 そのことを明らかにしているのは、この本の終りの方の「イリュミナション」についての章である。この章は、これまでのランボオ論を顔色なからしむるものである。
 まだ二十(はたち)にもならぬ天才少年がコンミューンの乱から受けた心の深傷(いたで)の、その反抗と幻滅との現場を具体的に説明してくれるのが、この章なのである。
 イリュミナションの冒頭に出されている「大洪水の後」の書き出しの「大洪水の思い出がふたたび落ちつくや否や……」という一行の重味を、神秘家ランボオを主張する人たちはノアの洪水のイメージに結びつけるが、とんでもない誤りである。大洪水とはコンミューンの乱のことであり、そのあとにつづくさまざまのイメージは当時の政治情勢のカリカチュアーなのである。このことに思い到らないで、ヴェルレーヌが言ったという「イリュミナション」という表題の解釈を真(ま)にうけて、「装飾版画」とかいうのは笑至の沙汰である。たしかに「イリュミナション」の中には雑多なものがゴタゴタつめ込まれているが、しかし、それはサロンで茶のみ話をする「飾画(かざりえ)」ではないことはたしかだ。
 それはコンミューンの挫折に幻滅した詩人の心に点滅した「世間」ではあるが、そのためランボオは詩を捨ててアフリカへ逃亡したのである。具体的な現実の上にしっかりと構築されたイメージだったのである。このことを大島博光ははっきりと示してくれている。
(新日本出版社 六八〇円)

(『詩人会議』 1987年10月)

ランボオ
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