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ランボオ パリ(3)カルチエ・ラタンの人気者

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(3)カルチエ・ラタンの人気者

 モーテ氏に追い出されたランボオは、ヴェルレーヌの紹介で、シャルル・クロやアンドレ・ジルなどの家を転々と移り住むことになる。
 ランボオとヴェルレーヌはいつか心開いて語りあうようになり、モンマルトルやカルチエ・ラタンを長いこと歩きまわる。ときどきカフェで休んでまた歩く。二人の詩人の共同の陶酔、共同の祭りが始まる。ヴェルレーヌの帰宅が、翌日の夜明けになることもしばしばであった。

 パルナッス派の詩人たちは月に一回、「おぞましき善人たち」の宴会をひらいていた。会食後には詩の朗読が行われた。戦争のために中断されていたのが、十月の初めに再開されて、ランボオも招かれた。ヴェルレーヌによって紹介された後、彼は「酔いどれ船」を朗読した。それは参会者たちのあいだに讃嘆と驚愕をよび起こした。参会者のひとりレオン・ヴァラドは、この会に出席できなかったエミル・ブレモンに宛てた一八七一年十月九日付の手紙のなかで、この異常な会合の模様を生なましく伝えている。
 「きみは『おぞましき善人たち』の宴会に出席しないで、たいへん損をした。そこではヴェルレーヌの紹介で、ランボオという名の十八歳にもみたない怖るべき詩人が見世物になった。でかい手、でかい足、まったく子供っぽい顔で、十三歳の子供と言ってもいいくらいだ。深い青い眼をして、性格は内気というよりは野性的──これがこの若者の姿だ。彼の想像力は驚くべき力と退廃にみちていて、われわれの友人たちすべてを魅了し、あるいは震えあがらせたものだ。……この詩人の来歴はわからないが、ただシャルルヴィルからやってきて、もう二度と故郷も家族も見ないという堅い決意でいるということだ」
 しかしそれも一時的な騒ぎにとどまって、熱狂はやがて鎮まった。ランボオの成功はとりわけ好奇心によるもので、彼は頭の調子の狂った男とみなされ、詩を危険な道にみちびくものとみなされた。いわゆる専門家(プロフェショナル)は、その道に入ってくるやいなや、すべてをぶち壊そうとするような新入りを好まない。しかし寛大なひとびとは、ランボオのなかに、消える前にひときわ輝く星にも似た天才を見いだしていた。
 
 ランボオがカルチエ・ラタンの人気者になっていた短い期間、彼は話題の人となって、大家のところや写真家のところへ連れて行かれた。彼がシャルルヴィルからしばしば手紙と詩を送りとどけた、パルナッス派の大家テオドル・ド・バンヴィルも愛想よく彼を迎え入れた。ドゥラエはこの訪問についてつぎのような逸話を伝えている。
 「ヴェルレーヌの話によれば、ランボオがバンヴィルに『酔いどれ船』を朗読したとき、バンヴィルは〈わたしは船で……〉と始める方がいいだろうと言って反論した。野性的な若者は何も答えなかったが、彼は外に出ると肩をすくめてつぶやいた。──あの老いぼれの豚めが!……」
 しかしド・バンヴィルはランボオを親切に迎えて、のちにはビュシ街の自分の家の屋根裏部屋を彼の住居に提供している。そこでもランボオは馬丁のように、泥まみれの靴で新しいシーツの上に寝たりした。また、部屋にはいるや否や、窓を開けて、シャツを脱いだ。マラルメの詩的な表現によれば、「日没の最後の光とともにシャツが消えうせるために」である。シャツは虱だらけであったから。ド・バンヴィルは新しいシャツを持たせてやり、彼を夕食に招いた。
(つづく)

(新日本新書『ランボオ』)

左岸
左岸 1872年



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