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ランボオ 街道の詩・「居酒屋緑亭」

ここでは、「ランボオ 街道の詩・「居酒屋緑亭」」 に関する記事を紹介しています。
  街道の詩・「居酒屋緑亭」

 ドゥエからシャルルヴィルに帰ると、ランボオはふたたび退屈な生活を見いだす。為すこともなく、彼はメジエールの友人エルネスト・ドゥラエを訪ねる。二人はいっしょにあたりをさまよい、ランボオは自分の詩を読んできかせる。二人のあいだには深い友情が生まれ、その友情はその後二十年にわたってつづく。
 帰ってから一週間後の一八七〇年十月七日、早くもランボオは二度めの家出を決行する。彼はベルギーのシャルルロワに住んでいる学友ジュール・デ・ゼサールを訪ねてゆく。靴ずれによる足の痛みを我慢しながら、彼は徒歩でベルギーへ向かう。ジュールの父親は上院議員で「シャルルロワ」新聞を出していた。ランボオの目的はその新聞に自分の詩をのせてもらうことと、新聞記者として雇ってもらうことであった。ジュールは、学校でのコンクール賞に輝くランボオを親切に迎えてもてなす。しかし、家人との話しあいは悪い方へむかう。ランボオは共和主義を支持するという自分の考えを口にする。しかし、ベルギー人のデ・ゼサール家は王党派であった。ジュールの父親の上院議員はいう。
 「お若い革命家よ、わしの新聞はきみには向かない。まずきみの大学入学資格(バッショ)をとりたまえ」

 その後、彼はブリュッセルを回ってドゥエのイザンバールのところ、つまりジャンドル姉妹の家へゆく。この前の家出の折、やさしい母親のような世話を受けたことが忘れられなかったからである。――このドゥエで、彼は若い詩人ポール・デムニと知りあいになる。それから八カ月後、このデムニにランボオは二番めの「見者の手紙」を書き送ることになる。
 十一月二日、シャルルヴィルに帰ったランボオは、ドゥエのイザンバールにあてて書く。「ぼくは死にそうです。平板さのなかで、意地悪さのなかで、単調さのなかで腐ってしまいそうです。……ぼくはものすごく自由な自由にあこがれています……ぼくはきょうにもまた出発すべきだったのです。出発できたのです。ぼくは新しい服を着ています。時計を売ります。そうすれば、自由万歳!です」
 この二度めの家出の終り頃、ランボオはドゥエにいた時、ベルギーで作った詩を書き写して、新しい友人デムニに送っている。「居酒屋緑亭で」「いたずら好きの女」「食堂(ビュッフェ)」そして有名な「わが放浪」など、いわゆる「街道の詩」で、テーマも共通でシャルルロワでつくられた。

 「居酒屋緑亭」のほんとうの名は「緑の家」であった。家も家具もすべてが緑色に塗られていた。ランボオはベルギーを横切っていたとき、そこに寄ったのだった。

    居酒屋緑亭にて  夕ぐれの五時

  八日来(らい)の 石ころ道に靴も破れ
  おれは シャルルロワに入った
  居酒屋緑亭で バター塗りパンと
  ハムを注文 ハムはもう冷えていた

  幸せな想いで 緑のテーブルの下に
  脚(あし)を伸ばし 素朴な壁掛に見とれた
  すると なんともすばらしいことに
  乳房の大きな 眼のぱっちりした娘が

  キッスなどに びくともしない娘(こ)が
  笑みを浮べて運んできた バター塗りの
  パンとぬるいハムを 色塗りの皿で

  にんにくの匂うハムは ばら色で白く
  そして大きなジョッキに注いでくれた
  泡立つビールは 夕日に映えて黄金色
                一八七〇年十月

 緑亭――この希望の色をした家は幸福と自由の象徴である。詩人はそこで「幸せな想い」に浸る。「キッスなどにはびくともしない」給仕女はまた「いたずら好きな女」のなかにも現われる。この詩でもランボオは「幸せにじっとして」いる。

    いたずら好きな女

  ニスと果物の いりまじった匂いのする
  褐色の食堂で のんびりくつろいで
  おれは何か ベルギー料理をとりよせ
  大きな椅子に坐って たべながら

  柱時計の音を聞いていた 幸せにじっとして
  一吹きの湯気とともに 料理場が開いて
  給仕女がやってきた なぜかなかばほぐれた
  三角の肩掛けをして いたずらっぽい髪をして
  うぶ毛のある うす紅の桃のような頬の上に
  ふるえる 小さな指をさまよわせながら
  子どもっぽい くちびるを尖らせながら

  彼女は おれを喜ばせようとそばで皿を並べ
  それから まるでキッスをしてというように
  小声で「ねえ 頬に霜焼けができちゃったの……」

 ランボオは「わが放浪」のなかに彼の放浪生活を天才の閃きをもって描いている。「ファンタジー」という副題をもつこの詩は、現実よりもファンタジーに属するものであろうが、「街道の詩(うた)」をしめくくる作品である。それは恐らくその時代のもっともうつくしい詩のひとつであり、ランボオの作品のなかでももっともうつくしい作品であろう。

  おれは出かけた 破れポケットに拳をつっこんで
  おれのマントもまた ぼろでかたちばかり
  おれは空の下をゆき 美神(ミューズ)よ おん身に忠実だった
  おお おれはなんとすばらしい愛を夢みたことか

 ランボオが家出をくりかえした頃、出発という主題は彼の詩のなかで大きな場所を占めている。

     冬の夢

  冬 おれたちは出かけよう ばら色の小さな客車で
     青いクッションに坐って
  たのしいだろう ふんわりしたどの隅も
     熱い接吻の巣になるのだ

  おまえは眼を閉じる 窓越しに 夕ぐれの影どもが
     しかめっ面をするのを 見ないように
  あのがみがみ言う怪物ども 黒い悪魔や
     黒い狼どもの群を 見ないように

  やがておまえは 頬を掠めるものを感じるだろう
  やさしい接吻が 気まぐれな蜘蛛のように
     おまえのうなじを這いまわった……

  するとおまえは 頭をかしげて言う「探して!」
  おれたちは その虫をゆっくりと探すだろう
    ──ほうぼう這いまわる その虫を
              客車で 一八七〇年十月七日

 二回めの家出ののち、シャルルヴィルに帰ってから、「出発」という主題はランボオの詩の主要なもののひとつとなる。出発する、帰ってくる、また出発する、帰ってくる……これがランボオの生活のリズムとなる。詩人は出発を夢みる。「よき宿屋」を夢みる。「居酒屋緑亭」や「いたずら好きな女」におけるような、あの心地よい宿屋はランボオにとって平和と自由の隠れ家であった。この田舎の「宿屋(オーベルジュ)」ということばは彼の詩のなかによく出てくる。「わが放浪」のなかでは、「おれの宿屋は大熊星」とも書いている。

 しかしこの「出発」も、イザンバールへの手紙に書いたような「自由な自由」も、失敗することが明らかになる。それでもシャルルヴィルにとどまっていることのやりきれなさを、彼はその後「記憶」のなかに美しく書く。

  おれの小舟は いつもじっとして 錨索(いかりづな)を
  涯しない水の眼の底におろす――どんな泥の深さか

 さらに後の『地獄の季節』の「不可能事」においては、おのれの少年時代の放浪生活にたいして、悔恨をまじえた自己批判を加えている。

ああ! あの少年時代のおれの生活、時をかまわず街道を歩き、超自然的に飲まず食わずで、もっともすごい乞食よりも平然として、国も友もないことを自慢した。なんという愚行だったことか、それは。


 さてランボオの反抗は、その時代の政治的および社会的な諸問題にたいする鋭敏な自覚とともに始まっている。普仏戦争の始まった一八七〇年七月以来、彼はナポレオン帝制に反対する詩、「一七九二年の死者たち」や「シーザーのいらだち」を書いている。この後の詩は、ナポレオン三世がセダンにおいてプロシャ軍の捕虜になったという状況から想を得て書かれている。

     シーザーのいらだち

  蒼ざめた男が 花咲く芝生にそって歩いている
  黒い服をきて その口には葉巻をくわえて
  蒼ざめた男は チュイルリーの花壇を想う
  すると どろんとしたその眼がぱっと輝く

  皇帝は 二十年のお祭り騒ぎで酔っぱらっている
  彼はつぶやいた 「わしは 蠟燭の火のように
  自由を そっと巧みに 吹き消してやろう」
  自由はよみがえった! 彼は背骨を折られるのを感じる

  彼は捕えられた――どんな名がその無言の唇に
  震えるのか どんなむごい悔恨が彼を噛むのか
  だれにもわからない 皇帝の眼は死んだようになる
  彼は恐らく 鼻眼鏡をかけた共犯者を想い浮べる
  そして火のついた葉巻からのぼる青い細い煙を
  見つめる サン・クルー宮での夕べのように

 蒼ざめた男とは明らかにナポレオン三世である。顔の蒼さは、権力を失った皇帝の精神的な原因にもよるが、そのとき皇帝は重い膀胱炎を患っていて、そのために三年後には生を落すことになる。「花咲く芝生」はナポレオン三世が幽閉されていた、プロシャのウィルヘルムホシュの城のそれである。また「鼻眼鏡をかけた共犯者」とは、一八七〇年にプロシャに宣戦布告をした大臣エミール・オリヴィエを指している。サン・クルー宮は皇帝と皇妃ウージェニーの居城のひとつであった。
 ここでは、皇帝批判のようなテーマをみごとに詩に形成するというランボオの詩的才能もさることながら、その政治的意識の高さと確かさとを見てとることができる。またこの頃、おなじく普仏戦争から想を得た「谷間で眠る男」が書かれる。

      谷間で眠る男

  緑の窪地のあたり 河が銀のぼろ切れ(注1)を
  岸べの草にきらきらまとわせながら歌っている
  太陽は 高慢ちきな山から 輝いている
  小さな谷間は 光にあふれ 泡立っている

  若い兵士がひとり 帽子もかむらず 口を開けて
  冷たい 青い芹のなかに漬かって 眠っている
  雲の下 草の上 蒼ざめて 彼は横たわる
  光の降りそそぐ みどりの寝床のなかに

  グラジオラス(注2)の中に足を入れて 彼は眠る
  病んだ子供のように微笑んで まどろんでいる
  自然よ 温かくあやしてやれ 彼は寒いのだ

  花の香りも もう彼の鼻をふるわせはしない
  彼は陽を浴びて眠る しずかな胸のうえに
  手を置いて──右の脇腹には二つの赤い穴
                     一八七〇年十月

 注1 銀のぼろ切れ──太陽に反射して輝く河面の形容。
 注2 グラジオラス──黄色い花をつけたグラジオラスである。

 この詩は、あざやかな生と死の対照のなかに、戦争の怖ろしさを描きだしたひとつの画面である。E・ヌレが言うように「生気にみちた植物と溢れる光のなかに、ひとりの人間の肉体がじっと横たわって身じろぎもしない。緑、青、黄の点描のあいだに、二つの赤い穴があざやかである」
 緑と青は自然の静けさ、草の溢れる生命を現わしている。そして血の赤さは、ここではたんに緑の生命をひきたてるばかりでなく、この詩の主題を浮きたたせている。
 「彼は寒いのだ」―兵士はもうまわりの溢れる生命にくみすることもできず、温かい太陽をたのしむこともできず、すでに死の冷たさが彼をとらえているのである。

新日本新書『ランボオ』

草


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