大島博光年譜5(一九四五―一九四七)
一九四五年(昭和二十年)三十五歳
一月三日、鈴木静江と長野駅にて再会する。二月、再度招集令状を受けるも再び解除となる。
「いよいよ怠惰な詩人にも国民徴用出頭令なるものが、今日参りました。二月五日に出頭、徴用決定までには少なくも廿日位の余猶はありませう。ただ希はくばイオニアの岸に近きところに徴用されたきものです。さらに希はくば、この徴用がウエディング・マーチによって伴奏さるる機会とならむことを!」(一日付鈴木静江宛)
「徴用出頭は、いよいよウエディング・マーチへのアフロディーテのお導きではないかしら……或いはわたしたちの春の流れへのプレリュードではないかしら……/おお しかし、願はくば、わたしのナルシスさまの傷つかぬようなお仕事でありますよう。/かよわい わたしの おこどもさんの堪え得るようなお仕事でありますよう。/あなたよ、けれど どのような事になりませうとも、お力落しになられないで……/あなたになる わたしが居ります故。居ります故。/参りますわ。十一日に。/又、一時半 長野駅着で。」(四日付大島博光宛鈴木静江書簡)
「いま両親と共に、われらの《聖地》渋へきてゐます。君がいっしょでないのが残念です。徴用の方は九分通り解除になるやうです。またしても美神の恩寵といふほかありません。」(六日付鈴木静江宛)
以降、ギリシャ古典調の詩を混じえた恋愛書簡を頻繁にやり取りする。三月一日付の書簡にプロティノスへの言及がある。
四月、東京無線に入社する。
「ψ、一日に東京無線へ行き、入社は殆ど決定しましたが、目下会社側の多忙のため、ポストや条件の決定はまだです。近いうちに呼び出しがあるでせう。それまで最後の閑暇をたのしんでゐます。――久しぶりに『マルテの手記』を読みかへし、その中に浸ってゐました。精神を思ふままに転位すること、しかも常に高みへと転位すること、――そのやうな自己操作の訓練をおもってゐます。」(四日付鈴木静江宛)
「会社内では、一番らくなポストを望み、本でも読ましてもらはうと思ってゐたのに、一番頭脳的で、忙しい業務係にまはされてしまゐ、それも、入社早々、主任の次席などを与へられて、本の読めないのには閉口です。しかし、このあひだは、デカルトの「方法序説」をよみ了へました。Bureauで読むデカルトのすばらしさは、今までの読書にない新鮮な歓びです。あの、ただ厳密に真理を追究する方法について簡明に書かれてゐる書が、詩よりも詩的でした。」(五月五月付鈴木静江宛)
五月二十日、鈴木静江と結婚。
八月十五日、終戦。
秋、上高井郡川田村(現在の長野市若穂川田・若穂牛島)に疎開していた鈴木初江を訪ねる。
「そうこうしているうちに八月十五日に敗戦、その秋十月か十一月か、大島博光さんが来てね。政党に入れってすすめたんです。そのころ共産党の人達が釈放されたんです。/私も、かつて左翼的な運動をしたこともあるからか、と思ったりしたけれど、相手が大島さんだったことに非常にびっくりしたんです。というのは、抒情詩人としての大島さんしか私は知らなかったわけ、あの頃は『蝋人形』にいたでしょう。あんな甘い雑誌をやっている大島さんが何で私に?って、非常に以外(ママ)だったわけですよ。」(『長野県現代詩史1955-1989』 柳沢さつき編集代表 しののめ書房 一九九〇年 「座談会編」「東京方面」における鈴木初江の発言。)
(つづく)
(『狼煙』85号 2018年4月 重田暁輝編集)
一九四五年(昭和二十年)三十五歳
一月三日、鈴木静江と長野駅にて再会する。二月、再度招集令状を受けるも再び解除となる。
「いよいよ怠惰な詩人にも国民徴用出頭令なるものが、今日参りました。二月五日に出頭、徴用決定までには少なくも廿日位の余猶はありませう。ただ希はくばイオニアの岸に近きところに徴用されたきものです。さらに希はくば、この徴用がウエディング・マーチによって伴奏さるる機会とならむことを!」(一日付鈴木静江宛)
「徴用出頭は、いよいよウエディング・マーチへのアフロディーテのお導きではないかしら……或いはわたしたちの春の流れへのプレリュードではないかしら……/おお しかし、願はくば、わたしのナルシスさまの傷つかぬようなお仕事でありますよう。/かよわい わたしの おこどもさんの堪え得るようなお仕事でありますよう。/あなたよ、けれど どのような事になりませうとも、お力落しになられないで……/あなたになる わたしが居ります故。居ります故。/参りますわ。十一日に。/又、一時半 長野駅着で。」(四日付大島博光宛鈴木静江書簡)
「いま両親と共に、われらの《聖地》渋へきてゐます。君がいっしょでないのが残念です。徴用の方は九分通り解除になるやうです。またしても美神の恩寵といふほかありません。」(六日付鈴木静江宛)
以降、ギリシャ古典調の詩を混じえた恋愛書簡を頻繁にやり取りする。三月一日付の書簡にプロティノスへの言及がある。
四月、東京無線に入社する。
「ψ、一日に東京無線へ行き、入社は殆ど決定しましたが、目下会社側の多忙のため、ポストや条件の決定はまだです。近いうちに呼び出しがあるでせう。それまで最後の閑暇をたのしんでゐます。――久しぶりに『マルテの手記』を読みかへし、その中に浸ってゐました。精神を思ふままに転位すること、しかも常に高みへと転位すること、――そのやうな自己操作の訓練をおもってゐます。」(四日付鈴木静江宛)
「会社内では、一番らくなポストを望み、本でも読ましてもらはうと思ってゐたのに、一番頭脳的で、忙しい業務係にまはされてしまゐ、それも、入社早々、主任の次席などを与へられて、本の読めないのには閉口です。しかし、このあひだは、デカルトの「方法序説」をよみ了へました。Bureauで読むデカルトのすばらしさは、今までの読書にない新鮮な歓びです。あの、ただ厳密に真理を追究する方法について簡明に書かれてゐる書が、詩よりも詩的でした。」(五月五月付鈴木静江宛)
五月二十日、鈴木静江と結婚。
八月十五日、終戦。
秋、上高井郡川田村(現在の長野市若穂川田・若穂牛島)に疎開していた鈴木初江を訪ねる。
「そうこうしているうちに八月十五日に敗戦、その秋十月か十一月か、大島博光さんが来てね。政党に入れってすすめたんです。そのころ共産党の人達が釈放されたんです。/私も、かつて左翼的な運動をしたこともあるからか、と思ったりしたけれど、相手が大島さんだったことに非常にびっくりしたんです。というのは、抒情詩人としての大島さんしか私は知らなかったわけ、あの頃は『蝋人形』にいたでしょう。あんな甘い雑誌をやっている大島さんが何で私に?って、非常に以外(ママ)だったわけですよ。」(『長野県現代詩史1955-1989』 柳沢さつき編集代表 しののめ書房 一九九〇年 「座談会編」「東京方面」における鈴木初江の発言。)
(つづく)
(『狼煙』85号 2018年4月 重田暁輝編集)
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