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大島博光年譜(4−2)1944年

ここでは、「大島博光年譜(4−2)1944年」 に関する記事を紹介しています。
一九四四年(昭和十九年)三十四歳

 二月、「秋の歌」(詩)を「蝋人形」に発表。この号に龍野咲人による書評「詩人の位置――ルネヴィル「詩的体験」について」が掲載される。なお同号をもって「蝋人形」廃刊となる。同月、『近代名詩選集』(千歳書房 山田岩三郎編集代表)に「生命を変へる」、「竪琴」、「微風に寄す」の詩三編を収録。同月、茨城県下館(現在の筑西市)に疎開していた西條八十を訪ねる。この時西條を訪問していた新川和江を知る。
「肩巾の広い、堂々とした体格の小父様、というのが最初の印象だった。少女の目にはぐんと年嵩の中年紳士と見えたものの、今思えば大島さんは、まだ三四歳で、独身の青年でいらしたのだ。(中略)西條先生は、目を通されていた私のノートを大島さんに示され、「現代詩の悪い影響を受けていないところが、いいね。それに、ボキャブラリーがとても豊富だ」と、同意を求められた。大島さんもひと通り読まれて、「そうですね」、と相槌を打ってくださった。〈現代詩〉も〈ボキャブラリー〉も、はじめて耳にする言葉であったので、私は途方に暮れ、ますます固くなって坐っていた。そんな私に大島さんは、先生と同様、優しいまなざしを向け幾度も頷いてくださった。」(新川和江 「少女の日に出会った詩人――大島博光さん・追慕」 「詩人会議」 二〇〇六年八月)
四月、龍野咲人の斡旋で長野県軽井沢高等女学校への就職が内定し、軽井沢で待機するも教育委員会から辞令がおりず内定取り消しとなる。後日、その理由を思想の故である旨、龍野から知らされる。
「貴方が女学校へ任命されなかったのは 思想のためだと校長が昨日申しました。/貴方の思想を西條先生なり 文学報告会なりに証明してもらって 然るべき人とお逢ひになるがよいでせう/大へんな誤解が 私たちの友情に暗影を投げてをります/昨日は私に不参を命じて学校職員の秘密会議がありました/じつに残念です/この誤解が明白に滅し去るまで 私に逢はないでゐてください/ますます疑を深めるのがよいことではありません/私も苦しい立場となりました/詩の友情が 思想の同志かなんどのやうに校長は考へております/どうか よき解決をして下さい/特高の人にお逢ひになり 貴方がどんな思想かを明白に申し立てられるが一番いいと存じます」(二九日付大島博光宛龍野咲人書簡)
また大島自身は後年次のように回想している。
「雑誌(蝋人形)の編集を手伝っていて 戦争中紙の配給が無くなって いよいよ出せなくなって こっちは失業だから軽井沢の女学校の先生の話があって 荷物も送って行ったら 校長はいいって言ったんだけど あいつは赤だからだめだって そこから二~三時間だから松代に帰って(療養した) でもそれが良かったんだね」(尾池和子「博光語録」)
五月以降、故郷松代で療養しつつ、軽井沢や追分へ頻繁に出かけ思索に没頭する様子が当時の日記から知られる。
「軽井沢沓掛の宿にて/永遠と時間、人間の偉大さと惨めさ、有限と無限……――これら両極のあひだを動揺することによって、わが日日は流れ去る。このやうなイデエたちが友のごとくわれに語りかける。不可見が可視的に身近かに感じられる。光りと闇がだんだん溶けてくる……しかしわれ自ら、わが内なる深淵に溺れはせぬか、それが怖ろしい。しかしまたその時には、翼が役立たう。そのやうな時には、わが深淵を天空に投げかへさう。」(五月七日付日記)
「夜、暗たんとして強き風あり。宿を出でて、追分への道を彷徨す。嵐の夜の底より天空に叫べど、叫び声はただ風に運び去られ、死せる暗黒の天体(ほし)にひとり佇み立てるもののごとし。パスカルの「永遠の沈黙」を想へり。知性の疲れはて、黙する時、心臓が不安に戦くならむ。これは一個の心理学的問題たるべし。──暗黒の夜の天空の彼方になほ永遠の光彩を描き見るは精神の操作のみ。」(五月十一日付日記)
「夕ぐれの微風がさはやかに吹き、全身をゆあみするやうに、立っていると、殆んど恍惚を覚える。そよぐ麦の穂波の音、草葉の微かな音……しばらく陶然として微風に聴き、ゆあみしている……あの伊太利の落日の中で、「生はよきかな!」と晩年の偉大な肯定の幸福に歓喜の声を挙げたニイチエを想はないではいられぬ。緑の風とこの酩酊!このやうな詩を書きたい。苦悩も絶望も忘却せしめ、大地の涯なさを夢みさせ、まるで「不可見」を皮膚の感覚に囁いてくれるやうな微風を創造しなければならぬ。しかし詩では、また苦悩や絶望が深く秘められていなければならぬ。詩では、爽快それ自体といふやうなもののみでは決して深い感動を喚起することができぬ。さはやかな微風でさへ、その対照をもたねば、詩の中を吹くわけにはゆかない。してみれば、この自然の微風のこの魅惑(?)──むしろ心地よさは、如何なる秘密の故に、かくもわれわれを感激させるのであらう……」(六月七日付日記)
「田舎の静けさを今度の隠栖ほど深く味はひ、その静かな時間を瞑想をもって埋めたことはない。空しい都会での彷徨を、今は空しく追想するばかりである。私の彷徨の時代も終わったらしい。いやもう終わらさねばならぬ。それにもう二度と都会へ出ない方が、私にはよいことにちがひない。ピレネエの山の中に引きこもったまま、殆んど巴里に出なかったフランシス・ジャムの聡明さを学ばねばならぬ。プルウストも、社交界より退いて後に、「失ひし時」を求め得たのであった。/東京での青春の浪費と彷徨を──失ひし時を、私も今こそ回復し、とりもどさねばならぬ。田舎で朽ち果てるなら、それは田舎のゆえではなく、自分の想像力の弱さにかかっている。自己を試みるにもかへって田舎はよき荒野であらう。空しい時間の浪費と、神経の消耗と──自己の分散よりは、どんなに倦怠の方が好ましく、自己の集中への道となることだらう。」(七月六日付日記)
「今朝、浅間が爆発した。入道雲のやうな爆煙が、雲一つない麻の蒼穹にそそり立って、朝の太陽に、まるで薔薇のやうに輝いてゐた。やがてこの爆煙は風に流れて、沓掛一帯に灰となって降りつもった。緑の樹木も屋根も、時ならぬ白灰色の雪に覆はれて、陽光に鈍く光って、かへって暑さうに見えた。髪の毛に降りそそいだ灰を、白髪を払ふやうにして歩いて行く外国人もゐた。」(八月十三日付日記)
「千曲河畔にて/この頃は、詩人の見るべき二つの薄明──黎明と黄昏のそれを釣などによって過ごしてゐる。今朝も四時に起きて千曲川へ向ふ。東の空にオリオンが懸ってゐたが、蒼白く瞬きながら、薄っすらとやがて消えて行った。四囲の山々のうへに、空が紅に明けはなれて行くと、まるで巨大な薔薇の花びらの中に立ってゐるやうであった。かうして、素朴な期待にみちて糸を垂れてゐると、時の流れるのも忘れはててゐる。素朴な忘却に浸ってゐると、生も軽やかである。」(八月二九日日記)
「ヴァレリイ の『海辺の墓地』を訳したり、キエルケゴールの『饗宴』(*)を訳してゐながら、絶えずわが脳裡に去来するのは詩と詩人の場所の問題である。詩人の位置といふべきか。」(九月九日付日記)
 十月、詩人の楊明文が平壌へ帰国の途中松代に大島を訪ねる。この時、東京で知り合った鈴木静江(後の大島静江。群馬県前橋市出身。上京して画塾へ通っていた。四四年春に帰郷。この時二十歳。)の住所を知り、手紙を書く。
「その後どうしています?/いつか、ヴァレリイの拙訳を読んで下さったあなたの声を ときどき想い出してゐます。(過日楊君が突然訪ねてきてくれ、その節あなたのことを話しあひ、あなたのアドレスを教へてもらったのです。)/五月、私はこの信州の田舎へ帰ってきましたが、田舎の単調にはやりきれません。七月頃までは、勉強もできましたが、九月・十月は、もう釣ばかりしてゐて、読書もせず、筆ももたないやうな日々です。ゴオガンがタヒチへ逃れたやうに、私は釣の中へ逃れてゐるのです。しかし、釣などには如何なる芸術的収穫もないやうです。完全な忘却─―素朴な期待による時間の意識の喪失があるばかりです。詩の方へ戻って行かねばなりませんが、その詩が私にはもう袋路のやうに行きつまってしまってゐるのです。尤も、この袋路を突き破って進むことが、いつでも芸術の道なのですが、今はその情熱も湧いてきません。癒しがたい倦怠が、どうしても払えないで、釣に走るといふわけです。七月頃作った詩を一篇同封します。一度あなたに朗読してもらひたいと希っています。都合よろしかったら、遊びにきて下さい。電報下されば長野駅まで出てゐます。/美神の恩寵、あなたのうへに厚からむことを。」(十月二十日付鈴木静江宛)
「お手紙とクロッキイありがたう存じました。久しぶりに線の魅惑に接しました。線がそこに描かれていない触感をさへ抱きかかえていることに驚きました。あなたのクロッキイは、私にマイヨオルの或る彫刻を連想させました。今度はあなたの自画像のそれを見せて下さい。/あなたが、豊富な色彩感とプラスティクに対する感覚をもちながら、さらにあの利根川の風景描写の中には音楽的律動を捉えていることは、驚異を私に与へます。ヴァレリイは、コロオの風景画を批評して、たしか「歌っている」と言っていました。あなたの風景画も歌っているに相違ない。あなたはそれをムウヴマンと言っているやうですが。──実を言へば、いつも私に想ひ浮んでくるのは、貴方の声なのです。それは、もう美しいソナタの小楽節、それもピアニッシモでつづくアンダンテのやうに、私の耳に残っているのです。ソプラノには堪えられない私の耳が、どんなにあなたの静かなアルトに憩ふたか、私は今も阿佐ヶ谷の夜を想ひうかべることができます。このやうな音調(タンブル)、音色(トオン)は、またあなたの画面に現れているかも知れない。それはジョン系の色彩と、ブルウ・グレエなどに対するあなたの偏愛が物語っているやうにおもはれます。しかし詩には、かういふ微妙な色彩や音感を盛ることは至難であるのみか、殆ど不可能なのです。ただコレスポンダンスによって、類推によって、近似値を創造するよりほかないのです。しかし、詩もそこまで行けばもう傑作たらざるを得ませんが、とてもいきがたいところです。/もう寒く、フィッシングにも行けず、久しぶりに家に閉じこめられていますと、もう何から手をつけてよいか分りません。あまり永いこと原始人の幸福に浸っていたので、思索することが、迷宮の道を辿るやうに、難事に見えて、一向に進みません。昨日は一日中、プルウストの小説を読み耽って、意識過剰、分析癖、神経の綾織、などに自己を移し入れてみました。しかし、それも倦怠に色どられています。早くマラルメかヴァレリイに戻って行かねばならないのですが、時に、このやうな高度な純粋さは恐怖を与へます。それは、大きな自己集中と努力を要求するからです。しかし、美しい秋を忘却のうちに過ごしたのですから、この冬は何か獲得しなければなりません。精神は何ものかを発見するでせう。/御精進を祈ります。」(十一月十九日付鈴木静江宛)
「光のなかで制作の歓びに浸っているあなたが見えるやうです。あなたの「若き芸術家の肖像」が完成されるやう祈ります。さうしてそのクロッキイの一つを送って下さい。(中略)/もう寒くなって、釣もできないとおもっていましたら、今度は冬の釣を教へられて、また水のほとりへ通っています。これではまた/輝かに、いと澄める芸術(たくみ)の季節、冬の日を…(マラルメ)/空しく釣りに捧げてしまひさうです。 暗い冬籠りの中から生れてくる内なる光は、空しく外光の中に放散されてしまひませう/(中略)音楽に飢えて、来月の日響を聴きに上京しようと思っていましたが、帝都ボムビングで、もう出かける勇気を失ひさうです。それに、プログラムも、余り魅力あるといふほどでもありませんから。/御健筆を祈ります。」(十一月二八日付鈴木静江宛)

*註 キルケゴールに『饗宴』と題する(または仏訳されている)著作があるか不詳であるが、この時期に大島が翻訳していたことが確認できるキルケゴールの著作に『反復』がある。

(『狼煙』84号 重田暁輝編集 2017年12月) 

少女


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