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壺井繁治「詩の前進のために」

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 詩の前進のために     壺井繁治 

 終戦後の民主主義革命の進行に応じて、職場の中から詩を書く人が非常にたくさん現われて来たし、現にますます多く現われて来つつある。方々の労働組合には文化部というものがあって、そこからいろいろな雑誌が発行されているが、それらの雑誌には労働者の詩が満載されている。また組合とは直接の関係をもたぬ文化サークルもあって、それが自主的に文学雑誌を出しているのもあるが、そのような雑誌にも、俳句や短歌などと並んで、詩がたくさん発表されている。それらの詩には、大体において、一つの傾向が認められる。すなわち第一は、詩というものを自分たちの実生活とは関係のない、何か特別の世界と考える傾向であり、したがってそこには徒らに内容のない美辞麗句が並べられ、それが「詩」であるというふうに考えられている。これらの詩には自分の眼で観察し、自分のこころで感動したところから生れた自分の言葉の代りに、多くはありきたりの、または人々によって使い古された生気のない言葉がイージーに使われている。第二は、詩を自分の実生活の中からつかみ出そうとする傾向であって、そこには詩の言葉がまだ詩の言葉として充分みがきあげられてはいないが、ともかく自分の生活経験を土台とし、その経験が生み出す感動の中から新らしい詩の言葉を創り出そうと努力していることである。
 これらの人たちがいわゆる近代詩をどのように見ているか、あるいはそれとどのような交渉をもっているかということは興味のある問題であるが、私の見るところでは、第一の傾向の人も、第二の傾向の人も、ほとんど大部分の人が、それとあまり交渉をもっていないということである。それは、ある場合にはその詩人の発展のためにプラスともなり、またある場合はマイナスともなっている。第一の傾向の詩人の、近代詩との交渉をもたない詩の現われ方は、詩が人間の内面的自覚の追求というきびしい道へは通ぜずに、それが単なる趣味として安易にもてあそばれているということである。したがってそれらは多く甘いロマンティシズムに堕し、現実に体する批判というようなものは微塵もなく、思想的には封建制の固い殻をかぶったままの感情が歌われている場合が多い。ここからは絶体に新らしい詩の生れてくることは期待できない。これに反して第二の傾向の詩人の、近代詩との交渉をもたない現われ方は、いわゆる近代詩の病弊である意識過剰的傾向から免れているということである。彼らは自我の追究というようなところから詩を出発させる代りに、まず彼等のおかれている社会的位置・境遇・環境、そういうものと自分との摩擦・矛盾、それらに伴って起こるさまざまの感情をまず歌おうとしている。それは彼らの人間としての個人的自覚がそのまま社会的自覚であるような現われ方をしているという点で、一つの特徴的な現われ方である。そして自分の個人的な悩みをいわゆる自我の内部に追いこんで悩むという行き方の代りに、もっとひろい社会的現実の矛盾の解決に結びつけて解決して行こうとする感情の方向が見られる。彼等の人間的自覚が労働者の集団生活の中で形成され、発展させられようとしているというのが、新らしい職場の詩人の間に見られる一つの特色であり、これはこれからの新らしい文学の発展にとって一つの重要な問題を提出している。

 職場の詩人だけの間題ではなく、日本の詩人全体の前に横たわっている大きな問題の一つは、日本の現代詩は、新体詩以来まだ形成の過程にあるということであり、したがってそこにはきまった形式がまだ確立されていないということである。新体詩時代には、一定の数律による定型が一応確立されたが、明治四十年代の口語詩運動あるいは自由詩の運動によって、これまでの新体詩的定型詩は否定されて、今日のような自由詩が詩壇を支配することとなった。そして極端にいえば、散文を行わけしても、詩として通用するというような時代となった。しかしそこから一方においての安易化の道もひらかれた。この安易化を如何にして打破するかというところからこれからの詩の困難な道がきりひらかれてゆくのである。
 
 詩は韻文ではない、というのが、今日の日本の詩壇では一つの常識となっている。事実、新体詩のような韻文詩は、最早、前時代的なものであることはまちがいない。それでは、現代詩は散文の一ジャンル(一種目)であるか、といえば、そうだといいきるものもあるし、そうではないと反体するものもあって、これはまだ論議の余地があるが、今日の日本の詩が散文的傾向にかたむいているという事実は否定できない。職場の詩人の詩を見ても、散文的なのが非常に多い。ただそれは意識的に散文的な詩を書こうとしているのではなくて、出来あがった結果としての作品が非常に散文的であるのである。しかもそれが悪い意味での散文である場合がしばしばあるというところに、大きな問題がある。それは散文的であるということが、詩の安易化の道と通じているという点で特に問題があると思う。
 現代詩が散文の一ジャンルであるかどうかは、ここでしばらく間題外として、いづれにしても詩には精神の集中的表現ということが必要である。集中による立体感、重量感(ポリュウム)がなければならない。もちろん、ある詩人の詩には、一見、精神の集中的表現とは反体の感情の流露や奔騰が見られる場合がしばしばあるが、それが集中や抑制を経た上での流露感や奔騰でなければ、それらの感情の流露や奔騰は空虚なものとなるであろう。
 職場の詩人たちが、自分の実生活からかけはなれたところに詩を見出そうとする代りに、自分の身のまわりから詩をつかみ出そうとする態度は、いちばん正しい行き方であると私は思う。しかしそこから一つの弊害が生れて来つつあるということも事実である。それは現実を変革しようとする強い精神によって、現実を観察したり把握したりする代りに、それを受身に描描写する傾向に流されているということである。そこから詩が平板な思い散文に傾いている。そこには集中された精神の燃焼があまり見られない。現実に体するレアリステイックな、冷徹な追究が、その迫究の究極において火花を散らすところに、新らしい詩の韻律が創造されると思う。水に一定の熱度を加えるとき、水は沸騰して泡立ち溢れる。それがいわばわれわれのめざすところの詩である。反体に水を一定の温度に冷却するとき、それは刃のような鋭い稜角をもった氷となる。そこにもわれわれの詩がある。そのように現実の変化乃至変革の過程における律動をとらえることが詩人の任務であり、それをとらえるための感覚が鋭敏であればあるほど、そこからすぐれた詩が生れてくる。
 われわれの詩は、抒情がそのまま批評となるような高い知性と思想性によって裏ずけられていなければならない。抒情が批評となるためには、われわれの精神の内部において、その精神が物凄い熱度に燃焼しなければならぬ場合もあるし、また物凄い冷酷さをもつて氷結しなければならぬ場合もある。われわれの精神における抒情と批評との矛盾と統一、これこそが今後の新らしい詩を生みだすための格闘である。現実を熱っぽく感ずることの出来ぬ詩人は、現実を冷酷にレアリステイックに批評することは出来ない。また現実の最も冷たい部分を、その冷たさにおいて感知することの出来るものにして、はじめてみずからの精神の内部に現実を焼き払う熱度の高い火を燃やすことが出来るのである。いづれにしても、詩人は傍観者であってはいけない。現実に対する傍観的立場からは、自然主義的レアリズムは生れてくるかも知れぬが、現実を変革しようとする強い意欲をもった人々の精神をゆすぶる韻律は生れて来ない。民主主義的詩人は現実の変革の過程に鳴りひびいている律動をとらえてそれを詩の韻律としなければならない。それは現実社会の中で崩壊して行くものの響きと建設されて行くもの、新らしく生れ出るものの響きとを正しくとらえ、それを詩の構造の中に織りこんで行くことを意味する。そのような詩として、われわれは大きな構想と組立てをもった叙事詩の出現を期待する。それはこれまでの日本のいわゆる近代詩の、意識過剰的な神經衰弱的なものとは縁の薄い、全く新らしい詩のジャンルである。それは近代詩ではないかも知れぬが、それよりもさらに新らしい一つの建築物である。それは容易には現われぬであろう。それが現われるまでには、民主主義的詩人は、現実生活の上でも詩の技術的錬磨の点からも、非常に苦しいたたかいをしなければならぬであろう。一行一行がすぐれた抒情であると同時に、全体が壮大な構想によって組み立てられたような叙事詩、それを私は期待するし、私自身としてもそういう詩を書きたいと思っている。
(一九四八年一月二十四日)

(『歌ごえ』創刊号 昭和23年3月)

壺井




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