Ⅱ
一九一八年にアレクセイ・ガスチョフの詩集「労働者の突撃の詩」がでた。これは革命後にでた最初のプロレタリヤ詩集であった。その年の七月に、文化団体「プロレットクリト」の機関誌「プロレタリヤ文化」の創刊號がでた。それからしばらく間をおいて、一九一〇年の五月に、そのブロレットクリトの流れを汲んだプロレタリヤ詩人のグループ「鍛冶屋」が組織され、雑誌「鍛冶屋」が發判された。かうして、プロレタリヤ詩が、社會の表面に姿をあらはしてきたのである。
十月の嵐はまだ荒れつづけていた。内には内乱が続き、外からは外國の干渉がつづいていた。物情騒然とした、戦時狀態の継続であった。一般には戦時共産主義の時代、あるひは市民戦争時代といはれている時期である。
鍛冶屋派は、この時代の詩を代表したものであった。否、詩を代表したといふよりも、文學一般を代表したものであったといった方がいい。といふのは、この時代はさういった慌ただしい時期であった関係上、散文芸術はほとんど發展せず、詩がソヴェート文学全体の圧倒的な部分を占めていたからである。
鍛冶屋派の詩全体を通しての特徴は、一言をもっていうならば、ロマンティックであったといへる。それは、革命の初期のあのあわただしい、けれど華々しい時代、いはゆる「革命の蜜月」の、ロマンテイックな気分をよく表現しているのである。したがってその詩には、火のやうに激しい信念が横溢しているが、しかし同時に抽象的なものが多い。高いもの、遙かなもの、華やかなものに眼をうばはれていて、足もとの日々の生活はほとんど忘れられている。けれどやはりその詩には、多くの真実性があり、多くの美と崇高さとがあったのである。以下、この派の代表的な詩人數名をあげて、それらの人をとおして、この派の詩のいろんな特質を見てゆかう。
サモブイトニクは、工場を歌っている。彼によれば、工場は人類の未来の幸福と自由とを保証するものである。工場とむすびつくことは、とりもなほさず闘争に参加することなのである。工場は、ブロレタリヤートの力の源泉であり、新しい世界の揺籃である。彼は工場をそのやうに見、賛美した。
ゲラシモフも工場を歌っている。だが彼の工場はもつとロマンテイックな、そして回想的な色彩をおびている。モータァの響きも、サイレンの唸りも、彼にとっては楽しく、なつかしい山の松風の音にきこへるのだ。
キリーロフの詩には労働の讃美がある。彼は現在の闘争や苦悩についてはあまり語らない。彼はいつも労働の喜ばしさを歌ひ、未來の世界の幸福を歌っている。
このやうに、工場と労働の主題は、鍛冶屋派の詩人たちが最も好んで歌ったところのものである。しかし、その工場や労働は現実のものではなく、彼らの頭の中で美化された抽象的なものであった。
ガスチョフの詩をみると、又もっと別な主題がうかがはれる。それは宇宙とでもいふべきものだ。彼は労働と科学の無限の力を信ずる。その結果、彼はもはや地上の世界では満足できなくなる。そこで彼の想念は地球の限界を突破し、とほく遊星の世界にまでとび、やがて全宇宙を征服しようとする。
カージンの詩にも、この宇宙主薬的な気分がみなぎつてゐる。彼は、自分を「宇宙の永遠性」に結合させ、「はるかな世界」に透徹するエネルギーの源泉とならせようと欲している。
この宇宙主義はもちろん象徴派の神秘的な逃避的な宇宙主義とは全く別なものである。鍛冶屋派の詩人たちにとっては字宙の無限に融合することは、プロレタリヤの力を全世界にひろげることであり、人間が自然を完全に征服することを意味しているのであった。
銀冶屋派の詩のもう一つの特徴をなしていたのは、集団主義の思想である。これまでのブルジョア的な詩人がいつも一人稱の単数「私」で歌つてゐたのにたいして、彼らは多くの場合一人稱複數「われら」をもって歌つてゐるのだ。そして集団の威力を謳歌しているのである。キリーロフも歌ったし、ゲラシモフも歌った。しかも彼らは、空間的な集團の力、つまり同じ時代の同じ地上の集団の力ばかりでなく、時間的な集団の力、即ち歴史の線の上につながっている集団の威力をも、誇らかに歌つてゐるのである。
前にも述べたように、この時代には詩人が圧倒的な多数を占め、散文作家は非常に影がうすかった。これは時代の性格である。この時代の生活・氣分は、まだ大規偵な散文芸術を生みだすまでに成熟し、おちついてはいなかつた。その気分は、調子の高い、ロマンティックな抒情的表現に適していたのだ。そしてその故にこそ、鍛冶屋派のあれだけの大きな華々しい活動がみられたのだ。
だが、この時代に、鍛冶屋派とならんで、ソヴェート詩の中にもう一つ別の潮流を形づくっていた、特異な存在があった。──それはデミヤン・ペドメイである。彼はこのめまぐるしい時代の中にあって、単純な形式とわかりやすい言葉でもつて、つぎつぎにおこつてくる眠のまえのさまざまの事実を歌ひ、その意義を大衆に懇切に説いてやり、大衆を闘争に駆りたてたのであった。
デミヤン・ペドメイは一九〇九年から文学的活動をはじめた。最初は主として人民派の雑誌「ロシヤの富」に詩を発表した。デミヤン・ペドメイというのはペンネームで、一九〇九年にかいた「危険な百姓デミヤン・ペドメイについて」からとったものである。一九一二年に、彼はボリシェヴィキーに近づいてゆき、その派の刊行物に政治的色彩のつよい作品をのせるようになった。それから一九一七年の革命にいたるまでの数年間は、彼は専ら寓話詩や諷刺詩をかいていた。これはむろん一種のカムフラージで、當時の峻厳な検閲制度のもとにあつては、そのやうな形でしか彼の思想や気分は表現できなかったのだ。だが、彼がクルイロフやシチェドリンの流れをひいた、古くから口シヤにあつたこのやうな形式を利用したことは、かへつて彼の詩を一般の大衆に親しみやすくさせたと見ることもできるのではないかと思ふ。
(つづく)
(『歌ごえ』1号 昭和23年3月)
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