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上田進「ソヴェートの詩」

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ソヴェートの詩  上田進

    

 ソヴェート詩の歴史はブロークの「十二」からはじまる、と僕は考へてゐる。十月の嵐が吹きさった直後の混乱した社會で、新しい芽はまだ姿をみせず、古い詩人たちは或は沈黙し、あるひは国外に逃亡して、新しい権力にたいして呪咀をたたきつけていたときに、ブロークはいちはやく革命をうけいれ、すばらしい叙事詩「十二」をかいたのであった。この詩は、ブルジョア社會にたいする峻烈な否定の色でつらぬかれている。資本家や僧侶や貴婦人や反ボリシェヴィキー的な作家なぞに鋭い嘲笑をあびせかけ、古い世界を「尻尾をまいた、疥癬かきの犬」のすがたで示している。そして、この古い世界に對立するものとして、彼は十二人の赤衛兵をだしている。
 かうして彼は古い世界にむかつて、はげしい憎悪をたたきつけた。そして狐疑逡巡しているインテリゲンチヤの先頭にたって、まっさきに新しい世界に人りこんでゆき、新しい権力に奉仕しようとしたのだ。そこに、この叙事詩の最も大きな意義がある。

 大体アレクサンドル・ブロークの詩は、つねに現実否定の概念につらぬかれているといへる。だが、その否定の性質が、初期と後期と・・・・所の否定は、象徴主義に特有の神秘的・・・・・現実の世界というのを認めないで、・・・・・しまっているのだ。これはいはば資・・・・孤判であった。だが、一九○五年の動・・・・んだんに現實の世界に向けられてき・・・・・族的批判が、民衆的な批判にかはってきた。プルジョア的退廃にたいする極度の嫌悪が、彼の心に固く根をはった。十月革命をうけいれる土台はできていたのである。
 しかしブロークは、十月革命の社会的、組織的性質を充分に理解していたとはいえない。彼にとっては、それは無秩序な自然現象であり、大吹雪であり彼が嫌悪していた古い世界を掃蕩する大旋風であるやうに思はれただけであった。ここにブロークの思想的限界があつたわけだ。結局ブロークは革命をロマンティックに理解しただけで、リアリスティックに理解することができなかったといはなければならない。革命と彼とのあひだの深いギャツブはつひに埋めることが出來ず、その結果、彼はまもなく沈黙してしまったのであった。けれど、とにかく彼は少くとも古い世界を否定したといふことだけで、すでに新しい世界の肯定の第一歩をふみだしていたのだともいへる。彼が今日、他の象徴派の詩人たちからぬきんでて高く評価されているのも、まったくその點においてなのである。・

 ブロークとほとんど同じやうな態度で革命をうけいれた詩人にアンドレイ・ペールイがある。その叙事詩「キリストは甦りたまへり」において、彼も矢張り十月革命を、嵐のやうな氣狂ひじみた一つの現現象としてうけいれているのである。だがペールイは、その後十數年間も動揺を続けたのち、社会主義建設の時代に入つて、やうやく確固たる思想的立場をかため、はっきりとソヴェート政府の側の詩人となるやうになった。もつとも彼は、それから間もなくこの世を去ってしまったけれど。革命前から活躍していた詩人のうちで、いちはやく新しい世界にとびこんでいた人がもう一人ある。それは、ブリューソフである。彼は前の二人にくらべると、ずっとはっきりした政治的意識をもっており、やがて党にも加盟し、文化的、教育的方面の活躍にしたがひ、また文学上でも大きな功績をのこした。

 農村に足場をもつていた詩人たちは、ブロークやベールイとはまた異った態度で十月革命をうけいれた。一般的にいうと、それらの詩人たちは、十月革命の社會主義的な使命を理解することができなかつたといへる。彼らは革命が封建的地主の権力をくつがえして、農村にブルジョア的デモクラシイの發展を保證してくれたと思ひこみ、それで革命を謳歌したのであった。
 そのやうなイデオロギーをもつとはっきりと表現しているのがクリュエフである。彼は農村の生活に幸福をもたらすものとして、十月革命を一応は歡迎している。けれど彼は、都會に對し、機械文明に對し、ブロレタリヤにたいしては、あくまでも敵對的な感情をすてることができない。彼は宗教的信仰にみちた古い口シヤの牧歌的な村落生活の勝利をもたらすやうな革命を期待したのである。だからクリュエフの手にかかると、レーニンの姿も古めかしい教會風な神秘的な相貌をおびてくるのだ。要するにクリュエフの詩は、十月革命の本質を古い農民的な立場から歪曲したものと断言することができる。
 クリュエフと大体おなじやうな立場をとつていた詩人に、クルイチコフとオレーシンとがある。
 これらの古い農民的イデオロギーを反映していた時人たちの群の中で、一人ずばぬけておおきな姿を示しているのが、セルゲイ・エセーニンである。彼は芸術的に最も豊かな天分をもっていたばかりでなく、新しい都會的、プロレタリア的文化と古い農村との相克を、最も鋭く、したがって最も悲劇的に体現しているのである。
 彼は、いはば騒々しい都會へ、古いロシヤの農村の民衆の信仰とは認と、村の寺院と牝牛の白ひと收人の歌とをもって入ってきたのだ。彼は農民のロシヤの自然と神話のなかからこそ、つきることのない量感をくみとり、美しい自の時を思ひあげたのであった。だが彼は、この牧歌的な農民のロシヤを愛すると同時に、農民一揆のロシヤを受してるた。彼は子供の頃から喧麻ずきな、おそろしい風基者であった。「反復する提民のロシヤ」の典をもってみたのだ。けれどその反題は組織的なものではなくて、まったく盲目的な、自然的なものであつた。エセーニンもやはり十月革命を一応はうけいれた。有名な時がある。

   空は鐘
   月は舌
   母は故郷
   おれはボリシェヴィク。
   全人類の幸福のために
   おれはお前の死を
   よろこび、歌う

 だが彼は革命を組機的に理解し、うけいれることはできなかったのだ。彼は古い農村と有機的にむすびついてしまっていた。だからプロレタリヤの都會的な面に反発してしまったのである。この都會的なものと農村的なものとの矛盾を、エセーニンはつひに克服することができなかった。これこそ彼に負はされた宿命的な悲劇であった。しかも彼は、自分の愛する農村の破滅すべき運命をはっきりと知ってみた。知っておりながら、それを棄てることができなかつた。「私は農村の最後の詩人」と歌った一行には、エセーニンの悲劇の深刻さが圧縮されている。そしてしかも彼は、自分とは相容れない都合的なものが、新しい世界が勝利を得ることを知っており、その世界においては自分は無用者であり、その世界の勝利は彼自身の死であることも知っていたのだ。この悲劇は、つひに彼エセーニンの自殺をもって終りをつげた。

 以上述べてきた時人たちは、結局十月革命を消極的にしかうけいれなかつた。それにたいし、革命を積極的にうけいれたものとしては未来派をあげることができる。
 未来派は、一九一二年にマヤコフスキイを中心として結成された、小ブルジョア的な反抗的な芸術家のグループである。過去のすべての芸術の否定が、その主要な眼目となつてゐた。十月革命はその反逆的な気分に合致した。彼らはすすんで新しい権力の傘下に馳せ参じた。
 この未来派の主張は、芸術は生産であるといふにあった。つまり芸術は、人生についての物語ではなく、人生そのものの建設なのであるといふのだ。したがって彼らは、生活の認識としての芸術を否定し、生活の建設としての芸術、行動としての芸術を主張した。そして大衆との直接的な結びつきの問題を提起した。──ここに未來派の肯定的な意義があった。
 しかし、その未來派の実際の活動をみると、彼らはその主張を現質の社会のなかにおいて実践せずに、書斎の中で実現しようとしたのであつた。その結果、彼らは現實から離反し、大衆からうきあがって、つひに単なる言葉の専門家になりおほせてしまったのである。
 はじめ未來派を主宰していたマヤコフスキイは、未來派が現實から離反してしまったとき、自分もそのグループと袂を別ち、やがてプロレタリヤ文學の陣営に入っていった。マヤコフスキイは、未來派のなかをさまつてゐるには、あまりに大きな存在でありすぎたのだ。マヤコフスキイのことについては、後でまた詳しく述べることにする。
(つづく)

(『歌ごえ』1号 昭和23年/1948年3月)

*上田 進(1907年10月24日 - 1947年2月24日)ロシア・ソビエト文学者。 早稲田大学露文科在学中に日本プロレタリア作家同盟に入る。本論考は没後の発表となるが、『歌ごえ』にその記載はない。

タチアオイ

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