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A.チリの風土と人民のあゆみ (2)チリ人民のあゆみ──スペインの植民から独立宣言まで──

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(2)チリ人民のあゆみ
   ──スペインの植民から独立宣言まで──


スペインの植民はじまる
 一六世紀の初期、スペインがインカ帝国を征服するまで、チリの北部から中部地方までは、インカ帝国の一部として統治されていました。住民たちは金、銀、銅の細工や農耕、高山動物リヤーマ(アメリカらくだ)の放牧などに従事して暮らしていました。南部地方には、インカ帝国の征服に最後まで抵抗したアラウーコ族が独自の文化を発展させていました。
 一五二〇年、ポルトガルの航海家マゼランがマゼラン海峡を発見し、この海峡を通って、大西洋側から太平洋側にでることができた話は有名ですが、それからわずかに二十年しかたたない一五四一年には、すでにリマ(ペルーの首都)のスペイン植民地政府の派遣したペドロ・デ・バルジビアによって、チリにおけるスペイン植民地の基礎がきずかれます(この時期は、日本は戦国乱世のさなか、徳川家康が生まれたばかりの頃です)。
 チリ南部の原住民アラウーコ族は、このスペインの侵入に長期にわたって抵抗したため、スペイン軍はしばしば苦戦をしいられます。しかし一六四〇年、アラウーコ族との間に停戦協定が成立してから、スペインの植民は急速にすすみ、それいらいチリはおよそ三百年にわたって、スペインの植民地として統治されることになります。

独立の気運たかまる
 一七七六年のアメリカの独立宣言、一七八九年のフランス革命などの影響によって、チリ生まれのスペイン人はしだいに本国からの独立を要求するようになります。
 そして、ナポレオンのスペイン侵入をきっかけに、チリの独立運動はラテン・アメリカの他のスペイン植民地とともに活発化し、一八一〇年九月、革命委員会を結成して、いったん独立を宣言しますが、翌年、独立軍は力およばず政府軍にやぶれ、ふたたび植民地の地位におしもどされてしまいます。

ついに共和国として独立
 一八一七年、チリの独立運動の指導者ベルナルド・オヒギンスは、アルゼンチン軍の支援をえて、スペイン軍をやぶり、翌一八年二月、ついにチリは共和国として独立を達成します(この頃、日本は一一代将軍徳川家斉の時代で、イギリス船がたてつづけに浦賀に来航、幕府の鎖国政策をおびやかしはじめていました)。
 独立して半世紀あまりたって、硝石の開発をめぐるイギリスの策動もあって、チリは隣国ボリビア=ベルーの両国を相手に戦争(太平洋戦争とよばれています)をはじめ、大勝して北部の硝石地帯を手にいれます。
 以後、チリは急速にイギリス帝国主義への従属を深めていくのですが、すでに一九世紀末、対外従属を拒否し、チリの真の独立をめざす進歩的な勢力が力をもちはじめていました。バルマセーダ(一八八六〜一八九一年までの大統領)は、その一人でした。バルマセーダの反帝国主義政策はイギリスの策動する内戦によっておさえられ、バルマセーダはこれに自殺をもって抗議したのです。
 それいらいチリは、硝石の輸出を中心とするモノカルチュア(単一商品栽培)経済におちいり、イギリスへの従属をますます深め、人民の生活は苦しいものになっていきます。
 資源は豊富なのですが、働らく人々は、きわめて貧しい生活をしいられてきました。
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インカ帝国
ペルー高原地方を中心に繁栄をきわめたインカ族の国。一五〇〇年ごろには北はエクアドル、南はチリにおよぶ大帝国を建設し、高度の芸術・文化が発展した。一五三三年、スペイン人ビサロに征服された。

(この項おわり)

少女

チリ人民連帯日本委員会パンフレット「アジェンデは死なず」

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