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暴虐のかぎりをつくす反乱軍(上)

ここでは、「暴虐のかぎりをつくす反乱軍(上)」 に関する記事を紹介しています。
4 この反革命ファシズムの暴虐(1973年)

暴虐のかぎりをつくす反乱軍

1)クーデタと荒れ狂うテロ

 一九七三年九月十一日、陸海空三軍と国家警察隊の指導権を握ったファシストが反乱、クーデタを起こしました。アジェンデ大統領は「私はモネダ宮(大統領官邸)を去らない。辞任しない。私は、人民から委託された権能を命をかけて守る」とラジオ放送。少数の人たちと大統領官邸にたてこもって人民連合政府を守り、ジェット機の爆撃、戦車の砲撃までくりだした攻撃にたいし、みずから武器を手にとって最後までたたかい、戦闘の中で倒れました。
 アジェンデ大統領が殺害され、選挙で国民によって合法的に成立した人民連合政府は武力で転覆されました。こうしてアメリカ帝国主義とチリ右翼反動勢力の手先、ファシスト軍事評議会が政権を横領しました。
 しかし、チリの働く人びとは、クーデタ発生と同時にこれに反対して立ちあがりました。工場は要塞と化し、労働者住宅地は戦場となったのです。クーデタ反乱軍は、戦車、ヘリコプター、ジェット戦闘機で攻撃しました。激しい抵抗が数日間つづき、多くの工場は破壊され、労働者住宅地の多くは無差別攻撃を受け、各地で婦人、こどもを含む大量殺りくがおこなわれました。
 クーデター反乱軍は、人民連合各党本部や支部はもちろん、人民連合の影響力が強い国立工科大学など学園にたいしても銃砲撃を加え、人民連合各党員や人民連合に加わらない進歩的、民主的な人をも含めて、手当り次第に逮捕し、投獄、処刑のファッショ的テロをくりひろげました。
 警察や兵営だけでは不十分で、国立競技場やサッカー場までが獄舎に変えられ、数万人の人びとが捕えられて拷問され、死の恐怖にさらされました。ファシスト反徒がクーデタ直後に殺害した数は、一万五千人をこえ、その後に殺害された数をあわせると死者、実に八万以上という身の毛のよだつような残虐さです。サンチアゴ市内を貫流するマポーチョ川に多くの死体が投げ込まれ、市街地では見せしめのため幾日も死体を放置しました。
 クーデタ反乱軍は、軍隊内の人民連合派とみられる軍人多数をも殺害、こうして軍内部にもテロ恐怖支配体制をつくりあげ、ファッショ的軍事独裁体制をいっきょにつくりあげました。

2)女性にも野蛮な拷問

 一九七四年二月、十日間にわたってチリを訪問したチリ実情調査婦人代表団のケイ・キャンプ夫人は、チリ婦人にたいする軍事政権の拷問のもようを、こう語っています。
 「チリの婦人たちに加えられている野蛮な拷問は、南ベトナムのサイゴン政権の警官がやったやり方と同じです。彼らは、婦人の陰部に電流の通った電線をつけ、たばこの火でやけどをさせ、むちで打ち、強姦しています」
 「私たちは、多くのやけどのあとをみました。ある婦人のひざは、二度とまっすぐ歩けないほど打たれて、はれあがっていました」
 キャンプ夫人たちは、チリの婦人たちがとじこめられている強制収容所を訪れたいと要請しましたが、軍事政権はこれを拒否しました。

3)これはヒトラーがやったことと同じだ

 クーデタ反徒の軍事評議会は、「祖国をマルクス主義の足かせから解放し、秩序と憲法による統治を回復する」といっています。しかし、現実におこなわれていることはファッショ的暴力支配です。全国には戒厳令がしかれ、憲法は破棄され、国会は解散され、共産党、社会党など人民連合各党は非合法化され、すべての政党の活動は禁止され、労働組合全国センターのチリ労働者統一中央組織(CUT)は非合法化され、働くものの権利は一切うばわれています。軍事政権みずから、五年間はこのような体制をつづけると公言しています。
 また、ヒトラーと同じく、家宅捜査と略奪をおこない、進歩的な書籍から小説、旅行案内書にいたるまで、気に入らない本はすべて灰にするという焚書から、裁判なしの処刑まで暴虐のかぎりをつくしています。
(つづく)

(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「アジェンデは死なず」)

アジェンデは死なず


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