『未完の物語』について(下)
さて、「以前にもまして重要な場所」を占めている、愛の詩に移ろう。
悲歌から闘争の詩へと、また抒情的な哀歌から哲学的な詩へと、アラゴンの詩は多様である。しかし、その中心的な主題はつねに、エルザへの愛であったといえよう。つまり「女は男の未来だ」(『エルザの狂人』)という主題である。男は、ただ愛をとおしてのみ、人生における自分の活動の意義をみいだすことができる。愛だけが、絶望に落ちこむことから男を救う。二人だけでなく、ひろい集団的な範囲での、幸福への信頼を鼓舞するのも、愛である。──これが、「女は男の未来だ」というアラゴンの直観的な言葉が意味するところのものと言ってよかろう。
『未完の物語』のなかでアラゴンは、エルザと出会う前の自分の姿と人生を詳しく書いている。
新橋(ポン・ヌーフ)で、わたしは会った
わたし自身のむかしの姿に
その眼はただ泣くためのもの
口はただ罵(ののし)るためのもの
(『新橋(ポン・ヌーフ)でわたしは会った』)
アラゴンは若き日のおのれのイメージを苦(にが)にがしく思い出しているが、それはまた、その後の幾世代もの若者たちが、おなじようなあやまちを繰り返えしていることへの深い配慮によるのである。
シュルレアリストのアラゴンは、孤独な反抗者であり、シュルレアリストたちのなかでも、もっとも矛盾にみちた、分裂した、激しい存在であった。しかし、この否定の時代にも、生活に意義を与える何ものかを見つけ出そうとする試み、追求が見られる。けれども、当時のかれをとりまく「雲」の世界からはなかなか抜けられない。エルザと出会ったおかげで、かれは自分をひき裂いていたもろもろの傾向を克服してゆく……エルザに出会ったときのアラゴンの自画像はつぎのように描かれている。
おまえに出会った時のわたしは 浜べで拾われた小石であり(……)
列車のデッキに座った 切符なしの旅客であり(……)
自動車のヘッドライトに照らし出された森の獣であり(……)
眼に藁屑が入ったとて 太陽にあたり散らす罵詈(ばり)であり(……)
こういうアラゴンを、エルザは日常生活の奥深いところで変えてゆく。アラゴンは人間として詩人として生まれ変わる。
おまえにめぐりあった あの日から わたしのほんとうの人生は 始まるのだ
おまえはその腕で ふさいでくれた
わたしの狂気のつっ走る 泥道を
……
わたしはほんとうに おまえの唇から生まれた
わたしの人生は おまえから始まるのだ
エルザはアラゴンを絶望からひきはなし、かれの心を変え、明日(あす)をめざしてたたかう人びととともに生きる勇気をあたえる。そして人びとのために書くには、かれはさらに困難な変身をとげなければならない。なぜなら、それまでの、観念的な書き方、シュルレアリスムの「醒めながら夢みる」手法を捨てて、レアリスムの手法を手に入れなければならないからである。
またアラゴンは、エルザの愛によって新しい人間に生まれ 変わると同時に、ふたたび青春をみいだす。エルザと出会う前の数年というもの、かれは若さを失い、若年寄りのようにさえなっていた。その三十歳のアラゴンに、エルザは青春をとりもどしてやる。かれにとって、彼女は生の泉となり、青春の泉となる。そうして六十歳、七十歳になっても、かれはこの青春を謳歌することをやめない。
ああ わたしには 秋の薔薇を語らないでくれ
わたしはいつも愛するのだ 若者は若者の清らかな額を
あのまぶたのしたに秘めた アネモネ色の眼を
きみがさりげなく わたしの肩に頭をよせて
さわやかな 五月の香りを ただよわせて
わたしにくれた春ゆえに わたしは生きる
(『幸福とエルザについての散文)
そしてこの『未完の物語』のフィナーレは、「幸福はこの世に存在する」という、希望の主調旋律をひびかせているのである。この主題は、長詩『エルザ』(一九五九年)のなかで、さらに音高く展開される。(以下略)
(『アラゴン選集Ⅲ』 解説)
・『未完の物語』について(上) ・詩集 未完の物語 目次
さて、「以前にもまして重要な場所」を占めている、愛の詩に移ろう。
悲歌から闘争の詩へと、また抒情的な哀歌から哲学的な詩へと、アラゴンの詩は多様である。しかし、その中心的な主題はつねに、エルザへの愛であったといえよう。つまり「女は男の未来だ」(『エルザの狂人』)という主題である。男は、ただ愛をとおしてのみ、人生における自分の活動の意義をみいだすことができる。愛だけが、絶望に落ちこむことから男を救う。二人だけでなく、ひろい集団的な範囲での、幸福への信頼を鼓舞するのも、愛である。──これが、「女は男の未来だ」というアラゴンの直観的な言葉が意味するところのものと言ってよかろう。
『未完の物語』のなかでアラゴンは、エルザと出会う前の自分の姿と人生を詳しく書いている。
新橋(ポン・ヌーフ)で、わたしは会った
わたし自身のむかしの姿に
その眼はただ泣くためのもの
口はただ罵(ののし)るためのもの
(『新橋(ポン・ヌーフ)でわたしは会った』)
アラゴンは若き日のおのれのイメージを苦(にが)にがしく思い出しているが、それはまた、その後の幾世代もの若者たちが、おなじようなあやまちを繰り返えしていることへの深い配慮によるのである。
シュルレアリストのアラゴンは、孤独な反抗者であり、シュルレアリストたちのなかでも、もっとも矛盾にみちた、分裂した、激しい存在であった。しかし、この否定の時代にも、生活に意義を与える何ものかを見つけ出そうとする試み、追求が見られる。けれども、当時のかれをとりまく「雲」の世界からはなかなか抜けられない。エルザと出会ったおかげで、かれは自分をひき裂いていたもろもろの傾向を克服してゆく……エルザに出会ったときのアラゴンの自画像はつぎのように描かれている。
おまえに出会った時のわたしは 浜べで拾われた小石であり(……)
列車のデッキに座った 切符なしの旅客であり(……)
自動車のヘッドライトに照らし出された森の獣であり(……)
眼に藁屑が入ったとて 太陽にあたり散らす罵詈(ばり)であり(……)
こういうアラゴンを、エルザは日常生活の奥深いところで変えてゆく。アラゴンは人間として詩人として生まれ変わる。
おまえにめぐりあった あの日から わたしのほんとうの人生は 始まるのだ
おまえはその腕で ふさいでくれた
わたしの狂気のつっ走る 泥道を
……
わたしはほんとうに おまえの唇から生まれた
わたしの人生は おまえから始まるのだ
エルザはアラゴンを絶望からひきはなし、かれの心を変え、明日(あす)をめざしてたたかう人びととともに生きる勇気をあたえる。そして人びとのために書くには、かれはさらに困難な変身をとげなければならない。なぜなら、それまでの、観念的な書き方、シュルレアリスムの「醒めながら夢みる」手法を捨てて、レアリスムの手法を手に入れなければならないからである。
またアラゴンは、エルザの愛によって新しい人間に生まれ 変わると同時に、ふたたび青春をみいだす。エルザと出会う前の数年というもの、かれは若さを失い、若年寄りのようにさえなっていた。その三十歳のアラゴンに、エルザは青春をとりもどしてやる。かれにとって、彼女は生の泉となり、青春の泉となる。そうして六十歳、七十歳になっても、かれはこの青春を謳歌することをやめない。
ああ わたしには 秋の薔薇を語らないでくれ
わたしはいつも愛するのだ 若者は若者の清らかな額を
あのまぶたのしたに秘めた アネモネ色の眼を
きみがさりげなく わたしの肩に頭をよせて
さわやかな 五月の香りを ただよわせて
わたしにくれた春ゆえに わたしは生きる
(『幸福とエルザについての散文)
そしてこの『未完の物語』のフィナーレは、「幸福はこの世に存在する」という、希望の主調旋律をひびかせているのである。この主題は、長詩『エルザ』(一九五九年)のなかで、さらに音高く展開される。(以下略)
(『アラゴン選集Ⅲ』 解説)
・『未完の物語』について(上) ・詩集 未完の物語 目次
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