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西條八十の戦争詩・軍歌に関連して

ここでは、「西條八十の戦争詩・軍歌に関連して」 に関する記事を紹介しています。
西條八十の戦争詩に関連して笹原常与氏が第3詩集『美しき喪失』の論評で次のように指摘しています。

 ・・・「現実世界との交渉」にむかった八十の姿勢は正当なものであったが、そうした姿勢に立ってうたわれた作品はしかし、詩的リアリティを持つに至らなかった。おそらくそのことは彼の詩精神が確固とした、深い思想を内包していなかったことに基因するものと思われる。
 繰り返し言うことになるが、詩における「思想」は「思想が思想として容易に認められるごとき」ものではないとしても、それでもなお八十の詩精神には思想が欠けていたように思われる。「思想」と言わずにそれを抽象化にむかう精神の働き、といい換えてもよいが、そうした営みを八十は少くともこれらの詩篇において欠いていたように思う。八十が戦時中の「現実」をもほとんど無批判な形で受け入れ、数多くの戦争詩を書き、やがて敗戦後の「現実」とも、そこに自己の主体を真撃にかかわらせることなくほとんど安易な形で融和していったのも、この抽象化の営みを欠いていたことが原因していると私には思われる。そして、そうした素地が、すでに詩集『美しき喪失』の中にはあった。
(笹原常与 『美しき喪失』について 「無限」44号)

この面での戦前・戦中の活動については竹久明子「西條八十年譜」にくわしく書かれています。

 昭和十二年十二月十一日、読売新聞社の委嘱により南京総攻撃に従軍するため、早朝羽田を出発した。南京陥落と同時に単身上海から揚子江を遡上し南京に到着。そして松井中支派遣軍最高司令官らの南京入場式を見た。この時の作詩「われ見たり入城式」は十二月十八日付の読売新聞に発表された。また新劇俳優友田恭助伍長の戦死をいたんで「呉淞クリークのほとりに立ちて」の長詩を書いた。一〇日間滞在して年末帰還した。

 昭和十三年九月、陸軍の要請で音楽部隊の隊長として中支戦線に従軍。深井史郎、古閑裕而、飯田信夫、佐伯孝夫らで、南京入りをし、そこで林芙美子、佐藤惣之助らに会った。また九江で久米正雄を団長とする文士部隊に合い、岸田国士、富沢有為男、深田久弥などと合宿した。文士部隊と別れ、廬山の麓の星子に一泊した。ここでの体験から「星子の夜襲」という詩が生まれた。
 五月、「少年愛国詩集」を講談社より出版した。

 昭和十四年九月初旬、講談社が「出征兵士を送る歌」募集の際、選者を委嘱された。
 この頃、刊行物の用紙統制も厳しくなり、印刷費は三度目の値上げで「鑞人形」の刊行も窮屈にな
り、頁も薄くなった。

 昭和十六年十二月八日太平洋戦争に突入。国をあげての戦時体制が強化された。
 翌年、二月二八日夜、鑞人形社主催、大政翼賛会後援の「愛国詩の夕」が日本青年館で開かれた。

 九月、日比谷公会堂での、航空記念日の記念講演会に出席、自作の詩「空の軍神」を朗読。
一〇月二七日、大東亜文学者大会が開催され、詩「大東亜の友を迎へて」を朗読した。
一二月には日本文学報国会詩部会では自作詩「宣誓詩」を朗読、戦中体制が色濃くなった。
 翌十八年、戦地へ赴く学生は次第に多くなり、教室は次第に淋しくなった。
 六月、東宝映画が海軍飛行予科練習生の生活をテーマとした「決戦の大空」を制作することになり、この時に作詩したのが「若鷲の歌」である。
 一〇月二一日、あの悲壮な学徒出陣の壮行会が明治神官で挙行され、八十は早大文学部教務主任としてそれに出席した。
 用統制限で薄くなった「鑞人形」の十一月号に詩「学窓よさらば」を、十二月号に詩「学徒出陣におくる」を発表した。
一月、「詩集銃後」を交蘭社より出版。

 昭和一九年三月に早大文学部教務主任を辞した。四月からは週に二日だけ大学に出勤してフランス詩の講義を行なった。
 一月二六日に柏木町三七七番地の自邸を一八万円で売却して茨城県下館町の間々田元吉所有の別荘に疎開した。これは大学時代の友人で同人雑誌「仮面」の仲間だった外池達之助の斡旋によるものである。外池は当時下館町長の職にあった。
 この頃、八十夫妻は東京と下館を往復し、やがて義弟三村一もここへ疎開してきて近所に住むようになった。
 「鑞人形」は二・三月合併号を最後に休刊のやむなきに至った。
 一月、詩集「黄菊の館」を同盟出版社より刊行した。
 翌年、戦局は悪化の一途をたどり、大学の教職員は空襲に備えての警備員の如きものになった。
 四月二三日の空襲で東京の事務所にしていた牛込納戸町の嫩子の家が焼失した。そして東大理学部に入ったばかりの長男八束は焼けだされ、下館に帰ってきた。
 七月に、かねて懇意にしていた海軍艦政本部第四課長だった堀江大佐が、新任地の広島から作詞の依頼をしてきた。八十は古閑裕而を誘って広島まで行く予定であったが、その折悪性の夏かぜに罹り、四・五日病臥しているうちに、広島に原爆投下の大惨事を知った。堀江大佐も消息を断ち、八十はあやうく原爆の惨事からまぬがれた。
 八十はその終戦の直前に大学に辞表を提出したが、到着が遅れたため、戦後それが八十の退職にきりかえられ学苑を追われた。
 八月十五日、終戦の詔勅の放送を夫人とともに聴いた。その感慨を色紙に次のようにしたためてい
る。
 「千里の江山犬羊に付して声なく雲はゆく、かれ くちびるを噛み裂けど、血さへ流れず秋暑し」
 八十は戦中、軍に協力し、軍歌なども多く作ったという理由から、戦犯に問われる憂慮もあったが、城戸芳彦、青木明光らの奔走によって、戦犯を逸することができた。
(竹久明子「西條八十年譜」 『無限』44号 特集 西條八十 昭和56年6月)

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コメント
この記事へのコメント
 「あの悲壮な学徒出陣の壮行会が明治神官で挙行され、八十は早大文学部教務主任としてそれに出席」ですか!映画『ラストゲーム 最後の早慶戦』にもニュース映画の映像が出てきましたね。
 「詩精神が確固とした、深い思想を内包していなかった」(笹原常与)と言われるような師を、大島博光はどのように乗り越えたのでしょうか。
 右遠俊郎が『詩人からの手紙』のなかの『「イヨマンテの夜」の歌手』で、白秋について次のように書いていたのを思い出しました。「白秋は思想がなくて感情純一の人。それだけに時流にも金銭にも自由に順応し、求められれば報酬に見合って、言葉を自在に駆使する。「皇道ひたすら、神に承けん」といい、別なところで、「寝床にも忘れじ、尽忠報国」と歌ったところで、単なる言語表現、美辞麗句にすぎないのだろう。」
2009/11/29(日) 01:40 | URL | 通りすがりの者 #mQop/nM.[ 編集]
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