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新しい詩の領域

ここでは、「新しい詩の領域」 に関する記事を紹介しています。



新しいし


(全国銀行従業員組合連合会『ひろば』152号「文学散歩」1957年10月)

ハコネウツギ




 新しい詩の領域     大島博光

 ぼくたちの国に来たのだ。かまわずあるいてゆこう。二人がどうじににっこりとし、目をかがやかせた雪みちなんだ。大手ふって、いばってあるいてゆこう。手をつないで、のっしのっしとあるいてゆこう。

 こころひらいて、なんでもかたりあおう。つまずきや傷口は、二人でいやそう。つかれた手はとりあい、つらい思いはなぐさめあおう。肩をくみあい、おくせず、あすのけいかく、たててゆこう。

 いつもいつも子供でいよう。大人の虚偽や反動を、あくまでにくもう。子供のすんだ、いきいきとした目を、じまんにしよう。そぼくで、ひたむきな、子供のこころを、いつまでもいつまでも、うしなわずにいよう。

 これは、全国療養詩人連盟の詩誌『炎の詩』一号にのっている、物上敬さんの「うら山のひかげに消えない雪道をみつけて」という散文詩である。この詩には、雪道の状景はひとつも書かれていないで、雪道をあるいてゆく二人の恋人の愛のよろこびとこころざしばかり歌われている。愛のよろこびといっても、それはそれとして歌わずに、むしろこころざしのなかに歌いこめられているが、愛のよろこびは、脈々と波うっているようだ。それが、この散文詩を、うたのように脈うたせている。この詩には、外部の状況が歌われていないから、もの足りない、迫力がない、というひともいるかも知れない。たしかにそういう面もあろう。しかし、いままで、わたしたちの詩は、あまりに外部の状況や状景を、自分ぬきに、自分の意識やこころざしをぬきにして、書く傾向がつよすぎたのではないか。自分のこころのなか、内部の状況をぬきにしては、外部の状況や状景をうたっても、血の通わないものになろう。そういう意味でわたしはこのような詩がもっと歌われてよいと考える。ここからさらに一歩をすすめて、この詩に歌われているような新しい愛、友愛、友情の精神や思想こそが、詩のなかで歌われてよいと考える。そのような能動的な精神や思想をうたう面が弱かったことこそ、わたしたちの詩の弱点のひとつであったとわたしは思う。ひととひととをつなぎ結びつけるような詩ほど、いまサークルにとって必要なものはない。
 つぎに、フランスの詩人ギュヴイックの「ずっとのちのひとびとに」という詩をかかげてみたい。そこには、未来のひとびととのつながりにおいて、うつくしい能動的な精神が歌いだされているとおもう。

 ずっとのちに 君たちはちがった労働を知るだろう 
 そのとき 労働はお祭りのようになるだろう
 そのとき 労働は詩人における 詩のようなものになり 
 めいめいのものの情熱 勝利 芸術となるだろう

 そのとき少しの思いやりで わたしを思い出してくれ
 しんじつ くりかえし押しつけられる労働を
 牛や馬のように働きすぎて ヘとへとになり
 わたしの眼ざしは 悲しみの色をおびたのだ

 おお思いみてくれ わたしらもこの人生を愛した
 そうして こんな地獄のような生活にもめげず
 わたしらは希望を捨てず わが身を泣こうとはしなかった

 そうだ わたしらもなんと悦びをもとめ愛したことか
 君たちとおなじほどに 小さな悦びや大きな悦びを 
 そしていちばん大きな悦びは 君たちに道をひらくことだった

 (おおしま ひろみつ氏は詩人) 



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