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大島博光年譜(3−2) 1940年 (『蝋人形』の編集担当に)

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大島博光年譜(3−2) 1940年 30才

一九四〇年(昭和十五年)三十歳
一月、「詩人兵士へおくる詩」(詩)を「蝋人形」に、エリュアール「遙かより遠くへ」を「新領土」に、「詩壇時評」を「文芸汎論」(三月まで計三回)に発表。
「夢の中で僕はもう一つの夢を見る/僕は夢の中で一冊の書物を読む/その書物の中にもう一つの夢そのものが見える――青い夢の深淵が/朝 僕は夢の書物に疲れてゐる/天空の河に水浴みするよき魂よ/わが鳥は翼たたみ 夢枯れたる毛髪の中/歌もなく嘴とぢたり かくて/わが眼は虚無に捧げられたる獻灯の如く/凍れる衰弱の中にともるなり/遠き天の焔を映せしはいつのことなりし/エトナの火 わがみうちより噴き輝きし/眼は いま閉ぢたり」(一月十五日付松本隆晴宛)

この頃、屋代小学校の教員をしていた同郷の作曲家小山清茂と交流があった。音楽評論家の丹羽正明が記録している。
「その頃小山氏にとってはまだ本業であった教職の方はというと、その少し前から屋代小学校につとめていた。氏の同郷に詩人の大島博光がいる。当時早稲田の仏文出で西条八十門下の俊秀として活躍していたが、胸を悪くして故郷へ帰っていた時なので、小山氏とも行き来していた。もともと小山氏は詩心があったらしい。中学二年の時、国語の教師が宿題に短歌を作って来いと言いつけたのがきっかけで、短歌を作ることに興味をもつようになった。師範へ入ってからは、寮に皆と一緒に生活していたため、一人で静かに考えることが出来なかったことと、音楽にすっかり熱を上げていたことのため、短歌は作らなかったが、それでも詩を作って同人雑誌「星林」にのせたりしていた。屋代小学校に勤めていた時、或る雪の晩大島博光が帽子もかぶらずやって来て、真白に雪をかぶった頭のまま、自作の詩を小山氏に読んで聞かせた。だんだん気持が高まって来ると涙をながしながら詩を朗読したのだった。一説によると大島氏は涙腺が故障しているせいで、よく涙をながすのだそうだが、それはともかく、聞いていた小山氏もすっかり感激して、その晩一気にこの詩に作曲をしてしまった。これが「消えさりし泉の歌」である。これは演奏に七分以上を要し、かなり長いものだが、ガリ版に刷ってほうぼうへくばったり、大いに自信をもった作品だった。「全くいい気なもんだよ」とおっしゃるが、若い頃のそうした感激は今でも忘れられるものではないようだ。(「作曲家訪問・小山清茂」 丹羽正明「音楽芸術」一九六〇年一月」 『日本の響きをつくる 小山清茂の仕事』 音楽之友社 二〇〇四年 所収)

 三月、ヴァレリー「美術館の問題」を「アトリエ」に発表。四月、「夢の書物」(エッセイ)を「蝋人形」に、「耳は夢みる」(詩)を「早稲田文学」に、ヴァレリー「マネの勝利」を「アトリエ」に発表。五月、エリュアール「正しき境域」(散文詩)、「幸福の思想」(一九三九年十月「新領土」に発表したものの転載)を「蝋人形」に発表。この号に奈切哲夫の寄稿がある。この号より加藤憲治に代わって編集担当(編集後記の執筆)となる。
「さる三月二十三日夜の「日本詩の夕」のために、二三日の予定でぶらりと信州から上京したら、いろいろな出来事にであつてそのまま帰へることができなくなつてしまつた。そのひとつは、西條主宰の恩師でもあり、私の先生でもあり、本誌でもよく原稿をいただいた吉江喬松博士の逝去であつた。西條主宰はそのために連夜博士の枕頭についてをられたほどであつたが、さうかうしてゐるうちに、今度は主宰のお嬢さん、嫩子さんの御結婚がまぢかに迫つて、御慶事の末席をけがしたいために帰郷をのばしてゐた。すると、本誌の編集者加藤さんが多忙のためにどうしても編輯がつづけられず、そのあとをうけて、私が編輯をするやうに命じられてしまつた。――実はまだからだも完全には恢復してをらず、非才、編輯などには不適であるが、主宰のお言葉にしたがつて、しばらくできるだけのことをしたいと、編輯をお引受けすることになつた。大方の御後援をねがつてやまない。」(「編輯後記」)

六月、「家もなく」(詩)を「蝋人形」に発表。この号に壷井繁治の初寄稿(詩)があり、また松本隆晴、高橋玄一郎等の寄稿始まる。同月、「詩と詩人について」(一九三九年一月「蝋人形」発表の「季節はづれの放浪」(十四)の転載)を「信州モンパルナス」に発表。「信州モンパルナス」は小岩井源一(高橋玄一郎の本名)編集発行人、発行所は信州詩人協会・信州浅間温泉、誌名は大島が命名。主な寄稿は島崎藤村「口語と詩歌の一致について」、日夏耿之介「黄眠草堂詩話──言葉の愛」、龍野咲人(詩)、田中冬二(詩)、西山克太郎(詩)、清澤清志(詩)、高橋玄一郎(詩)など。同月、「美術文化第一回展」を「アトリエ」に発表。七月、「詩は無用である」(エッセイ)を「蝋人形」に、エリュアール「パブロ・ピカソ」(詩)を「アトリエ」に発表。この号の「蝋人形」より龍野咲人の寄稿始まる。八月、「わが棘の高みに」(詩)、アルベール・ティボーデ「マラルメとラムボオ」、エリュアール「有用なる人間」、「脚」を「蝋人形」に発表。この号に吉田一穂、西山克太郎等の初寄稿がある。同月、『現代詩人集 第四集』(山雅房)に「深夜の通行人」の総題のもと計十三編の詩を収録。編集は永田助太郎、他の収録は春山行夫、近藤東、村野四郎、北園克衛、永田助太郎。その扉文は以下。
「象牙の塔は破壊された。詩人は街のなかへ投げだされた。詩人は愉しくまた限りなくかなしくさまよってゆく。智慧の木の実をたべた詩人は限りなくかなしいのである。彼はひとびとの暗い声をききとり、暗い生をひらき真理をひらく。さうしてなほまた荒地の方へさまよい出てゆく。彼の場所は荒野のかなたの夜への入口であり、「夢想の土地」への驛遞である。」

九月、エリュアール「ボオドレエルの鏡」(エッセイ)を「蝋人形」に発表。十月、「名まえなきものへ」(詩)、ランボー「忍耐」を「蝋人形」に発表。十一月、「よき民族のために」(詩)、ガストン・バシュラール「ロオトレアモンのけものたち」、フリードリッヒ・ヘルダーリン「訣別」、「生命の歳月」(ピエール・ジャン・ジューヴ、ピエール・クロソフスキ―の仏訳からの重訳)を「蝋人形」に発表。十一月、「石の窓より」(詩)、エリュアール「存在」を「蝋人形」に発表。
なお時期は不詳ながらこの前後に堀内規次(画家)と知り合ったと推定される。
「僕が小山田さんと始めて逢ったのは、戦前、一九四〇年頃、新宿のバーであった。その頃、僕は美校を中退して、毎夜新宿で飲んだくれていた。「ナルシス」とか「ノヴァ」というバーには、若い画家や詩人が毎夜たむろしていて、芸術論をぶちまくっていた。詩人の大島博光氏、仏文学者斎藤磯雄氏、小説家古賀剛氏などと毎晩のように顔をあわせていた。」(堀内規次 「小山田二郎」 「みずゑ」 一九六九年二月)
(つづく)

(重田暁輝編集 『狼煙』83号 2017年9月)

博光写真



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