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斎藤林太郎からの手紙(1993年3月5日)

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斎藤林太郎からの手紙(1993年3月5日)

拝啓、奥様静江様が病気のため亡くなられたことを丹野君からお聞きいたし、先生には一方ならぬお悲しみのこととお察し申し上げます。
土谷麓氏、丹野氏と三人で先生をお訪ねしました時は本当に元気の良い美人でした。インタナショナルの歌声はまだ耳底に残っております。(*1)酒をいただきながら詩のお話をお聞きしましたこともありありと覚えております。
三鷹は麦畑の多い田園都市の静かなところでした。
花屋を始められた時で、玄関から水樽に一ぱいの花が置かれてありました。すすきを川辺から取ってきて売った話、水仙を各戸ごと歩いて売った話など、心に残るものがたくさんあります。ほんとうに心やさしい奥様でした。
愛妻に送られた先生の詩には全く感動いたします。
先日の赤旗にのりました伊藤千代子、高橋満兎、田中サガヨ、飯島喜美。先生は土屋文明の教えを受けたとの記事のこと読みまして感動いたしました。あのけなげな乙女たちの生涯。(*2)

長野県と山形県は昔からよく似ております。
教員組合の前身となりましたお互いに綴方運動が行われておりました。私の四歳年上の土谷麓と私小学五年六年と村山俊太郎先生に教わりました。
終戦の年は善光寺裏の師範学校が空っぽで師団司令部が置かれ、私は暗号下士官としてやっておりました。
長野県人は現役の同年兵がおり、がんこでがんばりやです。
古本屋に行くと一目でわかりますが、よく読書をやる県民です。
長野につらなる高山がそう教えるのだと思います。
私 胃のポリープ手術により三分の二を除去しまして、二年半になりました。
よい方向で酒も二号ぐらいは飲んでおります。
早春となりましたが先生はじめご家族様共々にお体を大切になされて下さい。
奥様の静かなお眠りをお祈りいたします。 敬具
                     斎藤林太郎
三月五日
大島博光様

*1「朝の台所から聞こえてきたインターナショナル」

*2「こころざしつつたふれし少女たちのバラード」

水仙
大島静江「アネモネと水仙」

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