山形・小白川の詩人たちと大島博光
─土谷麓・斎藤林太郎・丹野茂・木村廣のこと
大島朋光
一九五〇年、大島博光が発行した詩誌『角笛』に山形県から三人の詩人が同人として参加した。土谷麓・斎藤林太郎・丹野茂である。土谷麓は製本工で詩人グループのリーダー、斎藤林太郎は農民詩人で知識人、丹野茂は蔵王の硫黄鉱山で働く労働者であった。三人とも山形市小白川町に生まれ、この地で互いの友情を育みながら、生活詩や労働詩、反戦詩などを書いた。
博光宅を訪問
一九五六年の年末、三人は初めて三鷹の大島博光宅を訪れた。この時のことを博光は述懐している。
「東京にもめずらしく雪が積ったある日、長靴をはいた土谷麓、斎藤林太郎、丹野茂の三人が、どやどやとわたしの家へやってきた。雪深い山形の雪男たちが、雪の東京へさらに雪の匂いをもってやってきたのだ。酒に酔うほどに、彼らは山形弁で熱っぽく詩を論じて飽きなかった」(「筵旗はちぎれ また立った」)
「大島の家に泊まったとき、朝の台所から聞こえてきた、インターナショナルをうたう大島夫人のうたごえが忘れられない、と三人がこもごもわたしに語ってくれた」と仲間の木村廣が証言している。(「小白川の詩人たち」)
土谷麓の葬式で山形へ
一九六二年、土谷麓が亡くなり、博光は初めて小白川を訪れた。葬儀に列席したあと、斎藤林太郎の家に泊まり、翌日には山形大学で講演したあと蔵王鉱山を訪れ、丹野茂の家に泊まった。
「わたしは馬見ケ崎川の岸べを歩いた。それはごろた石が乱雑にならべられた勾配のある階段のような川だった。その勾配の道を登ってゆくと、そこに小白川があり、斎藤林太郎の家があり、わたしはそのがっしりと建てられた、少し薄暗い家に泊めてもらった。」(「筵旗はちぎれ また立った」)
「土谷麓の葬儀があった翌日、大島さんは、山大教授新関岳雄さんのすすめで、山形大学でランボーの詩について講演された。……大島さんが新関さん同伴で蔵王鉱山に立ち寄られた。タ方になり、大島さんが『ここまで来たんだから、鉱山の共同風呂にはいっていきたい』と言った。新関さんは気がすすまないようだったが、鉱山(やま)のひとにまじって両人も入浴した。社宅とは名ばかりの杉皮葺きのハーモニカ長屋が建ち並び、鉱山(やま)のひとびとの暮らしは庶民的で活気があった。その一画のわたしの住居で、湯あがりあとに三人いっしょに酒を飲み、明けがた近くまで話がはずんだ。(丹野茂「なつかしい思い出」)
この時に博光から「詩人会議が発足するので『角笛』を発展的に解散して合流したい」との話があり、斎藤林太郎と丹野茂も賛同し、詩人会議に参加することになった。
斎藤林太郎と丹野茂の死
一九九四年、斎藤林太郎が亡くなり、翌年七月、丹野茂が亡くなる。博光は追悼文を書いた。
「七月の初め。山形の斎藤範雄さんから電話で、丹野茂が死んだと知らせてきた。脳梗塞によるもので六十六歳だったという。牡牛のように頑丈だった生前の丹野茂を想って、わたしは暗然とした。梅雨空が低く、どんよりとくもっていた」「一九六二年、土谷麓が五十歳そこそこで死んだ。堅固なレアリスム詩を大きく構築した斎藤林太郎は昨年七十七歳で世を去った。そうしてこんど、ユーモアにみちた丹野茂が死んでしまった。山形の三羽鴉はみんな遠く飛びさってしまった……いや、かれらはみんな鴉ではなくて、鳩だった。
山形の大地の色をした詩人よ
馬見ヶ崎川の風のように歌った詩人よ
丹野茂よ さようなら」
(「飼いならされる朝はない─丹野茂追悼」)
後を継いだ木村廣
三人の仲間だった木村廣は敬愛する土谷の土地に家を建てて小白川の住人となった。「三人は我家に集い、酒を酌み交わし、詩の話をした。時に陽気に、時には取っ組み合いもある激論だった」と、娘の木村泉さんが書いている。(「明日への脈絡」)
三人亡きあとを継いで精力的に詩作を続け、毎年のように詩集を出し、『詩人会議』に発表した。二〇一一年、三人を追憶し、その足跡を刻んだ「反戦詩の流れ 明日への脈絡─小白川の詩人たち」を『新やまがた』に連載した。これを小冊子にして大島博光記念館に送ってくれた。その三年前の二〇〇八年、大島博光記念館建設の際には詩人会議の呼びかけに応えて詩碑建立募金をしていた。彼にお礼を述べなければと気がついて連絡をとったのが二〇一五年秋だが、その年の七月にすでに他界していたことを知らされた。彼にひとことも言葉をかわさずに終わったことを申し訳なく、無念に思った。
博光は彼らを回想し、詠嘆している。
山形の 小白川の斜面の懐かしきかな
心美しく 志高い 三人の詩人たち
ここに住んで酒を汲み 詩を語り
また未来を論じて 詩人共和国を生きた
山形の 小白川の斜面を 流れる
馬見ヶ崎川とそのごろたやの 懐かしきかな
三人の詩人たちを はぐくみ育て
雨降れば詩人の如く激しく流れた
(出典)
• 大島博光「筵旗はちぎれ また立った『斎藤林太郎詩集を読む』」(『詩人会議』一九八八年六月号)
• 丹野茂「なつかしい思い出」(『詩人会議』一九九二年二月号)
• 大島博光「飼いならされる朝はない─丹野茂追悼」(『詩人会議』一九九五年十一月号)
• 木村廣「反戦詩の流れ 明日への脈絡─小白川の詩人たち」(『新やまがた』二〇一一年四月)
• 木村泉「明日への脈絡」(『うたごえ新聞』二〇一六年二月)
(『狼煙』84号 2017年12月)
─土谷麓・斎藤林太郎・丹野茂・木村廣のこと
大島朋光
一九五〇年、大島博光が発行した詩誌『角笛』に山形県から三人の詩人が同人として参加した。土谷麓・斎藤林太郎・丹野茂である。土谷麓は製本工で詩人グループのリーダー、斎藤林太郎は農民詩人で知識人、丹野茂は蔵王の硫黄鉱山で働く労働者であった。三人とも山形市小白川町に生まれ、この地で互いの友情を育みながら、生活詩や労働詩、反戦詩などを書いた。
博光宅を訪問
一九五六年の年末、三人は初めて三鷹の大島博光宅を訪れた。この時のことを博光は述懐している。
「東京にもめずらしく雪が積ったある日、長靴をはいた土谷麓、斎藤林太郎、丹野茂の三人が、どやどやとわたしの家へやってきた。雪深い山形の雪男たちが、雪の東京へさらに雪の匂いをもってやってきたのだ。酒に酔うほどに、彼らは山形弁で熱っぽく詩を論じて飽きなかった」(「筵旗はちぎれ また立った」)
「大島の家に泊まったとき、朝の台所から聞こえてきた、インターナショナルをうたう大島夫人のうたごえが忘れられない、と三人がこもごもわたしに語ってくれた」と仲間の木村廣が証言している。(「小白川の詩人たち」)
土谷麓の葬式で山形へ
一九六二年、土谷麓が亡くなり、博光は初めて小白川を訪れた。葬儀に列席したあと、斎藤林太郎の家に泊まり、翌日には山形大学で講演したあと蔵王鉱山を訪れ、丹野茂の家に泊まった。
「わたしは馬見ケ崎川の岸べを歩いた。それはごろた石が乱雑にならべられた勾配のある階段のような川だった。その勾配の道を登ってゆくと、そこに小白川があり、斎藤林太郎の家があり、わたしはそのがっしりと建てられた、少し薄暗い家に泊めてもらった。」(「筵旗はちぎれ また立った」)
「土谷麓の葬儀があった翌日、大島さんは、山大教授新関岳雄さんのすすめで、山形大学でランボーの詩について講演された。……大島さんが新関さん同伴で蔵王鉱山に立ち寄られた。タ方になり、大島さんが『ここまで来たんだから、鉱山の共同風呂にはいっていきたい』と言った。新関さんは気がすすまないようだったが、鉱山(やま)のひとにまじって両人も入浴した。社宅とは名ばかりの杉皮葺きのハーモニカ長屋が建ち並び、鉱山(やま)のひとびとの暮らしは庶民的で活気があった。その一画のわたしの住居で、湯あがりあとに三人いっしょに酒を飲み、明けがた近くまで話がはずんだ。(丹野茂「なつかしい思い出」)
この時に博光から「詩人会議が発足するので『角笛』を発展的に解散して合流したい」との話があり、斎藤林太郎と丹野茂も賛同し、詩人会議に参加することになった。
斎藤林太郎と丹野茂の死
一九九四年、斎藤林太郎が亡くなり、翌年七月、丹野茂が亡くなる。博光は追悼文を書いた。
「七月の初め。山形の斎藤範雄さんから電話で、丹野茂が死んだと知らせてきた。脳梗塞によるもので六十六歳だったという。牡牛のように頑丈だった生前の丹野茂を想って、わたしは暗然とした。梅雨空が低く、どんよりとくもっていた」「一九六二年、土谷麓が五十歳そこそこで死んだ。堅固なレアリスム詩を大きく構築した斎藤林太郎は昨年七十七歳で世を去った。そうしてこんど、ユーモアにみちた丹野茂が死んでしまった。山形の三羽鴉はみんな遠く飛びさってしまった……いや、かれらはみんな鴉ではなくて、鳩だった。
山形の大地の色をした詩人よ
馬見ヶ崎川の風のように歌った詩人よ
丹野茂よ さようなら」
(「飼いならされる朝はない─丹野茂追悼」)
後を継いだ木村廣
三人の仲間だった木村廣は敬愛する土谷の土地に家を建てて小白川の住人となった。「三人は我家に集い、酒を酌み交わし、詩の話をした。時に陽気に、時には取っ組み合いもある激論だった」と、娘の木村泉さんが書いている。(「明日への脈絡」)
三人亡きあとを継いで精力的に詩作を続け、毎年のように詩集を出し、『詩人会議』に発表した。二〇一一年、三人を追憶し、その足跡を刻んだ「反戦詩の流れ 明日への脈絡─小白川の詩人たち」を『新やまがた』に連載した。これを小冊子にして大島博光記念館に送ってくれた。その三年前の二〇〇八年、大島博光記念館建設の際には詩人会議の呼びかけに応えて詩碑建立募金をしていた。彼にお礼を述べなければと気がついて連絡をとったのが二〇一五年秋だが、その年の七月にすでに他界していたことを知らされた。彼にひとことも言葉をかわさずに終わったことを申し訳なく、無念に思った。
博光は彼らを回想し、詠嘆している。
山形の 小白川の斜面の懐かしきかな
心美しく 志高い 三人の詩人たち
ここに住んで酒を汲み 詩を語り
また未来を論じて 詩人共和国を生きた
山形の 小白川の斜面を 流れる
馬見ヶ崎川とそのごろたやの 懐かしきかな
三人の詩人たちを はぐくみ育て
雨降れば詩人の如く激しく流れた
(出典)
• 大島博光「筵旗はちぎれ また立った『斎藤林太郎詩集を読む』」(『詩人会議』一九八八年六月号)
• 丹野茂「なつかしい思い出」(『詩人会議』一九九二年二月号)
• 大島博光「飼いならされる朝はない─丹野茂追悼」(『詩人会議』一九九五年十一月号)
• 木村廣「反戦詩の流れ 明日への脈絡─小白川の詩人たち」(『新やまがた』二〇一一年四月)
• 木村泉「明日への脈絡」(『うたごえ新聞』二〇一六年二月)
(『狼煙』84号 2017年12月)
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