大島博光年譜(3)(1939年―1941年)
1939年(昭和14年)29歳
一月、「季節はづれの放浪(十四)詩と詩人について」を「蝋人形」に発表。同月、「植物」(詩)を「文芸汎論」に発表。二月、ランボー「鴉」を「蝋人形」に、アンドレ・シュアレス「神々の家、希臘の神殿」を「アトリエ」に発表。同月、『信州詩人詩華集』を共同編集で刊行。三月、「《日本的》をめぐって」(評論)を「蝋人形」に、「地球儀」(詩)を「新領土」に、クリスチャン・ゼルボス「ピカソの魔術的絵画」(評論)、エリュアール「パブロ・ピカソへ」(詩)を「アトリエ」に発表。この頃より松本隆晴との文通(はがき詩)始まる。
「魚と蛇との魔術師よ/君の深淵にして沼地なる眼よ/君の手の中/新しき葡萄酒は醗酵する/魚と蛇とに飲ませるために/そして彼らのために君は飲む/悪夢をして地の底を泳がしめよ/獣たちをして坑道を散歩せしめよ/おお影像の豊穣なる採掘者よ」(三月十四日付松本隆晴宛)
「君は水脈の中に永遠の音を歌った/沈黙の色彩を創造した/もはや存在の見えざる姿も/君には見える音となり 色彩となった/怖るべき釣針をもてる旅人よ」(四月十一日付松本隆晴宛)
四月、「季節はづれの放浪(十五)霊感について」を「蝋人形」に発表。この稿にリルケへの言及がある。なおこの章はロラン・ド・ルネヴィル『詩的体験』に多く負っている。また同号掲載の「加藤夫人を悼む」には「信州の田舎で、突然加藤夫人の訃報に接したとき、(…)」とあることから、この時期故郷の松代に帰省していたことがわかる。
同月、「深夜の通行人」(詩)、「独立展の超現実派」(評論)を「新領土」に、「夜襲」(詩)を「文芸汎論」に発表。五月、「愛のために」(詩)を「文芸汎論」に発表。六月、「悦ばしき知識」(詩)を「早稲田文学」に発表。八月、「戦死せる画家の友へ」(詩)を『戦争詩集』(昭森社)に発表。十月、「幸福の思想」(エッセイ)を「新領土」に発表。
「魚とともに泳ぐ人はつつがなく帰れるか/われはまたひとり/土手の蜂とたはむれ/蟻塚に火を放ち/水の上の空気を魚のごとく呼吸す/詩を歌はうとすれば熱がでる/われもまた忘却の友 沈黙の詩人/また水のほとりで会いませう」(九日付松本隆晴宛)(なお当年譜に引用する松本隆晴宛書簡は、後年松本が原稿用紙に書写して大島へ送ったものに拠っており、書簡そのものの実物は確認できていない。そのため送り元の住所が不明だが、内容から察するとこの十月の書簡は千曲川の土手に近い松代の生家から送ったものであろう。)
十一月、ルヴェルディ「毛の手袋(抄)」を「蝋人形」に、「詩と社会」(評論)を「文芸汎論」に発表。十二月、「ある暮の季節」(随筆)を「蝋人形」に発表。
「暗黒の地と夜の声に眼覚めた/夢想家よ/孤独な魚は群像のなかに郷愁をみたしたであらうか/願わくば睡眠をひき連れて/再び覚醒の野にもどりたまへ/僕は衰弱者/眼覚める力も/夢みる力も弱々しく/常に薄明の中でまどろんでゐる/病める眼は怪しき真昼の幻想に疲れ/人の家のあるところ 人の子らあそぶところより遠くはなれて/葦の穂波はしろく光れるところ/風のそよぎ楽の音となるところ/われはさまよひきて夢をみぬ/生命とよばれるもの何処にありや/存在と名づくるもの何処にありや/かくて葦の弱きくきを杖となし/われは足どり重くさまよひぬ」(四日付松本隆晴宛)
(つづく)
『狼煙』82号 2017年3月)
1939年(昭和14年)29歳
一月、「季節はづれの放浪(十四)詩と詩人について」を「蝋人形」に発表。同月、「植物」(詩)を「文芸汎論」に発表。二月、ランボー「鴉」を「蝋人形」に、アンドレ・シュアレス「神々の家、希臘の神殿」を「アトリエ」に発表。同月、『信州詩人詩華集』を共同編集で刊行。三月、「《日本的》をめぐって」(評論)を「蝋人形」に、「地球儀」(詩)を「新領土」に、クリスチャン・ゼルボス「ピカソの魔術的絵画」(評論)、エリュアール「パブロ・ピカソへ」(詩)を「アトリエ」に発表。この頃より松本隆晴との文通(はがき詩)始まる。
「魚と蛇との魔術師よ/君の深淵にして沼地なる眼よ/君の手の中/新しき葡萄酒は醗酵する/魚と蛇とに飲ませるために/そして彼らのために君は飲む/悪夢をして地の底を泳がしめよ/獣たちをして坑道を散歩せしめよ/おお影像の豊穣なる採掘者よ」(三月十四日付松本隆晴宛)
「君は水脈の中に永遠の音を歌った/沈黙の色彩を創造した/もはや存在の見えざる姿も/君には見える音となり 色彩となった/怖るべき釣針をもてる旅人よ」(四月十一日付松本隆晴宛)
四月、「季節はづれの放浪(十五)霊感について」を「蝋人形」に発表。この稿にリルケへの言及がある。なおこの章はロラン・ド・ルネヴィル『詩的体験』に多く負っている。また同号掲載の「加藤夫人を悼む」には「信州の田舎で、突然加藤夫人の訃報に接したとき、(…)」とあることから、この時期故郷の松代に帰省していたことがわかる。
同月、「深夜の通行人」(詩)、「独立展の超現実派」(評論)を「新領土」に、「夜襲」(詩)を「文芸汎論」に発表。五月、「愛のために」(詩)を「文芸汎論」に発表。六月、「悦ばしき知識」(詩)を「早稲田文学」に発表。八月、「戦死せる画家の友へ」(詩)を『戦争詩集』(昭森社)に発表。十月、「幸福の思想」(エッセイ)を「新領土」に発表。
「魚とともに泳ぐ人はつつがなく帰れるか/われはまたひとり/土手の蜂とたはむれ/蟻塚に火を放ち/水の上の空気を魚のごとく呼吸す/詩を歌はうとすれば熱がでる/われもまた忘却の友 沈黙の詩人/また水のほとりで会いませう」(九日付松本隆晴宛)(なお当年譜に引用する松本隆晴宛書簡は、後年松本が原稿用紙に書写して大島へ送ったものに拠っており、書簡そのものの実物は確認できていない。そのため送り元の住所が不明だが、内容から察するとこの十月の書簡は千曲川の土手に近い松代の生家から送ったものであろう。)
十一月、ルヴェルディ「毛の手袋(抄)」を「蝋人形」に、「詩と社会」(評論)を「文芸汎論」に発表。十二月、「ある暮の季節」(随筆)を「蝋人形」に発表。
「暗黒の地と夜の声に眼覚めた/夢想家よ/孤独な魚は群像のなかに郷愁をみたしたであらうか/願わくば睡眠をひき連れて/再び覚醒の野にもどりたまへ/僕は衰弱者/眼覚める力も/夢みる力も弱々しく/常に薄明の中でまどろんでゐる/病める眼は怪しき真昼の幻想に疲れ/人の家のあるところ 人の子らあそぶところより遠くはなれて/葦の穂波はしろく光れるところ/風のそよぎ楽の音となるところ/われはさまよひきて夢をみぬ/生命とよばれるもの何処にありや/存在と名づくるもの何処にありや/かくて葦の弱きくきを杖となし/われは足どり重くさまよひぬ」(四日付松本隆晴宛)
(つづく)
『狼煙』82号 2017年3月)
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