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『眼と記憶』(上)最後の審判はないだろう

ここでは、「『眼と記憶』(上)最後の審判はないだろう」 に関する記事を紹介しています。
 『眼と記憶』

 「最後の審判はないだろう」

 一九四八年から一九五三年にかけて世界における「冷戦」は朝鮮戦争においてその頂点に達する。一九五〇年十二月、アメリカのトルーマン大統領は朝鮮戦争で原爆使用もありうると言明する。一九五二年、ビキニにおいてアメリカの水爆実験が行なわれ、日本人の漁夫がその犠牲になる。原爆にたいする世界的な恐怖は、未来への見通しをもった人たちをも昏迷におとしいれた。
 『眼と記憶』は原水爆の脅威・恐怖が現実のものとなり、人類の生死にかかわる問題としてクローズアップしてきた状況のなかで書かれた。アラゴンはこの詩の由来についてこの詩の注で書いている(「この詩」と書いたのは一六〇ページに及ぶ『眼と記憶』を、作者は詩集と呼ばずに一つの詩と定義しているからである)。

 「この詩は、エルザ・トリオレの小説『赤い馬、あるいは人間の意志』の余白に想を得のである……
 作者は一九五三年十一月中旬からこの詩にとりかかった。ところで、この小説がかき立てたいろいろな反省やこの小説がよび起こした公開討論などが、作者をして『赤い馬』の読後に生まれたいろいろな感情の表現を、現代詩にあっては異例の規模で発展せしめたのである。
 この小説は原子爆弾その他が爆発した翌日に始まる。原子爆弾の爆発によって人類は破滅し、相互の交通手段もなく孤立した小さなグループにわかれ、滅亡にさらされ、『長くひき延ばされた死』に脅かされる。あたかもこの小説が出版されて数カ月後、太平洋での『実験』の犠牲となった日本の漁夫たちは、この『長くひき延ばされた死』に出っくわしたのである。
 この世界の終り、つまり地球上の生命の減亡という仮説からこの小説は始まる。そうしてこの詩はこの小説の対位法として始まるのである」

 冒頭の歌「最後の審判はないだろう」は、原子兵器の使用によって引き起こされるかも知れない世界終末の光景を詩人は想像によって描いている。

  ひとびとが閉じた その眼で見たのは
  鉄と 火と 飢えと 家々のかまどと
  太鼓におおわれた かずかずの銃と
  マストにまでかかげられた苦闘の姿

  われらがぶつかる この試練には
  もう 病院も 手術も 役立たない
  まさに ヒロシマ廃墟の絵図さながら

  もはや すべてのざわめきも とだえ
  もはや 絶望するものさえ いない

  この 魔法のような 大虐殺は
  われらを 有史以前へとつれもどす
  殺そうにも 生きもののいない屠殺場
  墓碑銘をかこうにも 書き手がいない
  死が勝ちほこる 蒼ざめた岩のうえに
  化石と化した われらのすがたを
  いったい だれが読みとるのだろう

 しかし、原水爆の脅威とその怖ろしさにただ怖れおののいているなら、それは原水爆をふりかざして世界の人民を脅かしているやからの思うつぼにはまることになろう。アラゴンはその脅迫にたいして「人間の意志」を対置させる。

  だがたとえ 歌が煙りのように消えてゆこうと
  わたしに耳傾けるひとが ひとりもいなかろうと
  街まちに ひとの足音がとだえようと
  気も狂わんばかりの 狂おしさで
  わたしは 歌をうたいつづけよう
  愛の歌で きみに答えつづけよう
  愛するひとよ わたしのただ一つのこだまよ

 ここでも詩人はエルザをうたい、おのれをうたっているが、『眼と記憶』では作者自身のいうように「政治的側面」が支配的である。とりわけ「どのようにして水は澄んだか」は、恐らく詩の歴史のうえで初めて歌われた壮大な党の詩である。
(つづく)

新日本新書『アラゴン』

海


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