fc2ブログ

マティスの言葉 デッサンについて(5)正確さは真実ではない(下)

ここでは、「マティスの言葉 デッサンについて(5)正確さは真実ではない(下)」 に関する記事を紹介しています。

 問題の四枚のデッサンは同じ主題によって描かれている。
 けれどもそれらはめいめい、線や輪郭や量感の表現において、それぞれきわめて自由に描かれている。
 じっさい、それらのデッサンのどれも、ほかのデッサンと同じではない。みんな輪郭が全く違っているからある。
 問題の四枚のデッサンでは、顔の上部は似ているが、下部はまったく違っている。このカタログの十三号の図では、顔の下部はごっつくて角ばっている。十四号の図では、それは顔の上部にくらべて 長く引き伸ばされている。十五号の図では、顔の下部は先端が尖っている。十六号では、ほかのデッサンのどの顔の下部にも似ていない。
 
 それにもかかわらず、それら四枚のデッサンを構成している異った要素は、描かれた人物の生まれつきの体格と同じ大きさを現しているのである。これらの諸要素は、同じ形象(シーニュ)によって表現されていないとしても、それぞれのデッサンの中で同じ感情でもって結びついているのである。つまり、鼻がどっしりと顔の中に根を張り、耳が頭蓋の中にしっかりと固定されている描き方、下顎がぶらさがっている描き方、鼻眼鏡が鼻と耳の上に置かれている描き方、視覚の緊張、すべてのデッサンにおける同じ濃密さ・・・とはいえ、それぞれのデッサンにおいて、表現のニュアンスは異なっているのだ。
 むろん、それらの諸要素の全体は、同一の人間を描いている。同一の人間を、特徴において、個性において、物を考察する仕方で、人生にたいする彼の反応において、人生にたいして彼が抱く慎しみにおいて、抑制なしに自分を解放することを妨げる慎しみにおいて、描いているのである。
 したがって明らかに、それらのデッサンの解剖学上の、構造上の不正確さは、人物の本質的な真実の内面的な特徴を表現する妨げとはならず、逆にその内面的な特徴の表現に役立っているのだ。

 それらのデッサンは肖像画だろうか、それとも肖像画ではないのか?
 肖像画とは何であろう?
 作品とは、表現された人物の人間的な感情を現わすものではないのか?
 レンブラントの言葉として知られている唯一のものはこうである──「わたしはひたすら肖像画を描いた」
 ルーヴルにある、赤いビロードのドレスを着たジャンヌ・ダ・ラゴンを描いたラファェルの肖像画は、まさに肖像画と呼びうるにふさわしいものであろう?
 それらのデッサンはこのようにほとんど偶然の結果ではないから、表現された特徴の真実と同時に、同じ光がそれぞれのデッサンにひろがっており、デッサンのちがった部分の造形的な特性、背景、透きとおった鼻眼鏡、物の重要感など──言葉では言い現わせないこれらすべてのものも、いわば紙を仕切ることで簡単に表現され、ほとんどつねに厚みのひとしい単純な線によって区切られ──相変らず同じものとして残るのである。
 わたしの考えでは、これらのデッサンにはどれにも、めいめい独特な創意工夫がある。この創意工夫は、芸術家が主題(テーマ)に深く没入したことから生まれて、その主題と完全に一致するまでにいたる。こうして問題の本質的な真実によって、デッサンが成り立つ。本質的な真実は、そのデッサンを制作する諸条件によって決して変えられるものではなく、反対に、その線のしなやかさと自由さによるこの真実の表現は、構図の要求にも順応するのである。本質的な真実は、それを表現する芸術家の見方、考え方によってニュアンスを与えられ、活気づきさえするのである。
 正確さは真実ではない。

一九四七年五月 ヴァンスにて
                 (おおしまひろみつ 詩人)
(完)

(『美術運動』1988年2月)

マチス

関連記事
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/3533-40e4d211
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック