人物像としてのわたしのモデルたちは、内心においてだしに使われる端役などではけっしてない。彼女たちはわたしの制作の主要な主題である。わたしは自分が思うままに観察するモデルにまったく依存する。それからモデルにもっともありのままの姿に合ったポーズをとらせるように決める。わたしが新しいモデルを採用するとき、わたしがそのモデルにふさしいポーズとして判断するのは、彼女がのんびりとくつろいでいる状態であって、わたしはその奴隷となる。わたしはこういう若い娘たちをしばしば数年のあいだ、興味のなくなるまで、モデルとして採用する。わたしの造形的形象は、恐らく彼女たちの精神状態(好きな言葉ではないが)を表現するもので、わたしはそれに無意識に興味を抱くのだが、さもなければそのとき興味を抱く何があろう?彼女たちの形姿はつねに完璧というわけではない。しかし彼女たちはつねに表現ゆたかである。彼女たちがわたしに与える情感的興味は、彼女たちの肉体を表現した部分には特に目立って現れないで、それはしばしば、画布や画用紙の上にまき散らされた風変りな線やヴァルールによって示される。その線やヴァルールはわたしの興味のオーケストレーションであり建築である。しかしだれにでもそれがわかるというわけではない。それは純化された悦楽であって、恐らくまだすべてのひとにわかるというものではあるまい。
ひとはわたしについて言う。「この魅惑者は怪物どもを魅了して喜ぶ」と。わたしの創作が、怪物どもを魅了したもの、あるいは魅惑的な怪物どもであると、わたしが思ったことは一度もなかった。ある人は言ったーわたしはわたしが表現したようには女たちを見ていなかったと。そういう人にわたしは答えた。「もしもわたしが街なかでそういう女に出会ったら、わたしはびっくりして逃げだすだろう」と。何よりもまず、わたしはひとりの女を創造するのではなく、一枚の画を描くのだ。わたしは入り組んだ線や影や半濃淡を用いなかったとはいえ、ヴァルールの働きや抑揚をしりぞけはしない。わたしは多少ともわたしの太い線によって抑揚をつけ、とりわけ太い線が白い画用紙の上に区切る面によって抑揚をつける。わたしは白い画用紙のさまざまな部分を処理するのに、そこに手を加えずに隣接する部分と部分の関係によって処理する。それはレンブラントやターナーのデッサンのなかに見ごとにみいだされるのであって一般的には彩色の得意な画家たちのデッサンに見られる。
要するに、わたしは理論なしで描く。わたしはただ自分が使用するいろいろな力を意識するだけだ。そしてわたしはひとつの考え(アイデア)に駆られて仕事を進めるのだが、その考えは画面の進行とともに発展し、その考えの発展するにつれて、初めてわたしにもその考えが真にわかってくるのだ。シャルダンは言ったものだ。「わたしはそれがうまくゆくまで、なるようにまかせる」と。(さもなければ、わたしは画面から捨てさる。なぜなら、わたしはたくさん削って消すのだから。)
もしもよい原則をもって仕事を進めるならば、画を描くことは家を建てることと同様、論理的に見えるだろう。人間的な側面にかかずらってはならない。ひとは人間的な側面をもつか、あるいはもたないかである。もしもっているなら、人間的な側面はやっぱり作品を彩どることになろう。
(つづく)
(『美術運動』1988年2月)
ひとはわたしについて言う。「この魅惑者は怪物どもを魅了して喜ぶ」と。わたしの創作が、怪物どもを魅了したもの、あるいは魅惑的な怪物どもであると、わたしが思ったことは一度もなかった。ある人は言ったーわたしはわたしが表現したようには女たちを見ていなかったと。そういう人にわたしは答えた。「もしもわたしが街なかでそういう女に出会ったら、わたしはびっくりして逃げだすだろう」と。何よりもまず、わたしはひとりの女を創造するのではなく、一枚の画を描くのだ。わたしは入り組んだ線や影や半濃淡を用いなかったとはいえ、ヴァルールの働きや抑揚をしりぞけはしない。わたしは多少ともわたしの太い線によって抑揚をつけ、とりわけ太い線が白い画用紙の上に区切る面によって抑揚をつける。わたしは白い画用紙のさまざまな部分を処理するのに、そこに手を加えずに隣接する部分と部分の関係によって処理する。それはレンブラントやターナーのデッサンのなかに見ごとにみいだされるのであって一般的には彩色の得意な画家たちのデッサンに見られる。
要するに、わたしは理論なしで描く。わたしはただ自分が使用するいろいろな力を意識するだけだ。そしてわたしはひとつの考え(アイデア)に駆られて仕事を進めるのだが、その考えは画面の進行とともに発展し、その考えの発展するにつれて、初めてわたしにもその考えが真にわかってくるのだ。シャルダンは言ったものだ。「わたしはそれがうまくゆくまで、なるようにまかせる」と。(さもなければ、わたしは画面から捨てさる。なぜなら、わたしはたくさん削って消すのだから。)
もしもよい原則をもって仕事を進めるならば、画を描くことは家を建てることと同様、論理的に見えるだろう。人間的な側面にかかずらってはならない。ひとは人間的な側面をもつか、あるいはもたないかである。もしもっているなら、人間的な側面はやっぱり作品を彩どることになろう。
(つづく)
(『美術運動』1988年2月)
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