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アラゴン『小説アンリ・マチス』について ──マチスのルーツとひろがり──(下)

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 この円形劇場が建てられたのは、占領軍の軍隊のためである。勝利者たちの気晴らしの設備をつくる必要があったのだ。セメネリアンの山の町シミイは、古代ヴェディアンチアン人、長髪のリギュル人たちの首都であり、アンチブにたいする抵抗の中心だったので、強力な守備隊を備えていた。このあたりのリギュル人たちはネルヴィアン人たちと同様にゴール軍の歩兵であった。じっさい、マチスはやっと異郷に移ったのだ。ヴェディアンチアン人たちは、首狩り族のネルヴィアン人ほど残酷ではなかったが、(わたしが多少の恐怖をいつもマチスに抱いているのは、彼がネルヴィアン人であるせいだろうか)その不屈の頑強さによってやはり怖るべき野蛮人として通っていたが、その彼らもローマの軍隊やカルタゴの軍隊に侵略されたのだ。それなのにローマやカルタゴの物語作者たちは、彼らヴェディアンチアン人たちが卑劣にもシーザーやハンニベルの軍隊に襲いかかった、とわれわれに物語るのだ。

 カンブレーの地のように、この地方もひどい目にあった。ローマ人のあとには、ヴィシゴート人が、そのつぎにはロンバル人が、そのつぎにはサラセン人が侵入してきた……やっと十世紀になって、あのジェノヴァのグリマルディ家のグリマル一世が、……むかしのリギュール国を解放し、グリモオ湾にその名を残した。彼はペペン・デ・リスタルの息子でシャルル・マルテルの兄弟、グリモールの血統を引いていたのである。なんともひとは意見が一致するものだ!
 そこへバスがやってきた……

 このようにここでアラゴンが、バスを待ちながら歴史に思いを馳せているのは、前にも書いたように、この文章が1942年に書かれたという事情による。1941年の秋、フランス西南部のシャトーブリアン、ナント、ボルドーなどで98名にのぼる人質がナチス・ドイツ軍によって銃殺された。1942年の初め、ニース滞在中のアラゴンのもとに、部厚い書類がとどけられた。シャトーブリアンの殉難者たちに関する文献であった。「これを歴史的文献にせよ」という手紙が同封されていた。こうしてアラゴンは、のちに有名になる『殉難者たちの証言』を書くことになる……したがって、ここでフランスの遠い往時における諸民族による侵略の歴史の喚起は、それはそのままナチス・ドイツ軍による侵略・占領を読者に暗示し、意識を喚起しているものとみなければなるまい。
(完)

(『美術の教室』37号 1988年)

マチス
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