大島博光年譜(2)(1936年―1938年)
一九三六年(昭和十一年)二十六歳
二月、ロートレアモン『マルドロオルの歌』を「蝋人形」に連載を始める。(十二月まで計十回。「第六の歌」のうち「第四の歌」まで)四月、西條嫩子の詩「バス」、「夕暮」を「蝋人形」に掲載する。この経緯を西條嫩子は『父 西條八十』(一九七五年 中央公論社)のなかで書いている。
「(…)ある日、父の主宰している詩誌の主筆で、仏文大学院生の大島博光氏が庭にいる私に話しかけて言うには、「お嬢さん、先生が授業中、ふたばこさんの和歌を読みましたよ。嬉しそうに朗々と。あれは和歌じゃない。詩の感覚だな。僕は面白いと思いましたよ。」/私は口もきけないほどびっくりしてしまった。(略 自作詩「夕暮」の引用の後)/これはまもなく、大島氏が『蝋人形』にのせてくれた私の十四歳の作品である。親馬鹿の父にこたえて私は詩の径をとぼとぼ辿りはじめた。」(なお文中「仏文大学院生」とあるが、大島が大学院に進学していたかどうかは不明)
また時期は数年前になるが同じく西條嫩子による次のような記述がある。
「父の主宰する詩誌『蝋人形』の編集をやっていた大島博光氏もランボオの傾倒者で、十三、四歳のお下げ髪の私に声をかけると、/「お嬢ちゃん、おお、季節よ、おお、城よ、ランボオの詩はすばらしいですよ」/と両手を挙げて謳歌して涙ぐみさえしていたのだ。」(『父西條八十は私の白鳥だった』 集英社 一九七八年)
五月、ジャン・コクトーが来日し、案内役を務めた堀口大學の付き添いでコクトーに会う。六月、「ランボウの現代的意義」を「エクリバン」(中野秀人・大木惇夫共同編集)に発表。八月、「不眠のうた」(詩)を「蝋人形」に発表。九月、アラゴン「ジョン・ハートフイルドと革命美」を「Ecole de Tokio」(末永胤生(画家)発行)に発表。なおシュルレアリスムの芸術団体「エコール・ド・東京」を結成したメンバーのひとり吉井忠(画家)との交流があったのはこの時期だと推定される。
「大島 吉井さんは御存じですかね、今の歌舞伎町のあたりに「武蔵野サロン」って喫茶店があって、絵描きさんたち、とりわけ、シュルレアリズムの方たちの会なんかあったでしょう。/吉井(忠) ええ、ええ。/大島 あなたもいらしていたんですか。/吉井 行ってました。あのときは、あなたと滝口修造の話をわれわれは聞いているんです。で、その頃、野田秀夫とか、それから寺田(政明)かな、アメリカから来たばかりのそれを聞いたことがある。だから、それ以来、大島さんと滝口修造の二人は、ずっとわれわれの間ではシュルレアリズムの開拓者になっているんです。/大島 二人ね。あれは何年頃でしたっけ。/吉井 昭和の初め、といっても十年前後かな。」(座談会―『NOVA』の時代を回顧して(上) 『NOVA』通信第一号 一九八八年)
同月、イリヤ・エレンブルグ『西方の作家たち』(橡書房)を小出峻と共訳で出版。十二月、「ランボオの手紙」(翻訳)を「文芸汎論」に発表。
一九三七年(昭和十二年)二十七歳
一月、エレンブルグ「スュウルレアリスト」を「蝋人形」に、ロートレアモン『マルドロオルの歌』(「第一の歌」)を「Ecole de Tokio」に発表。二月、「蝋人形社」に入社し、門田譲に代わって加藤憲治と共に「蝋人形」編集担当となる。同月、「候鳥」「労働」「交流」(詩)を「蝋人形」に発表。三月、フィリップ・スーポー「大海がある」を「蝋人形」に発表。四月、ランボー「渇」、アンドレ・ブルトン「サンボリスムの曲線に沿ひて」を「蝋人形」に発表。この号に滝口修造の寄稿(エッセイ「貝殻と詩人」)がある。五月、「エレヂー」(詩・ローマ字表記)、「詩壇時評」を「蝋人形」に発表。この号に北園克衛の寄稿(詩)がある。六月、アラゴン「20-Seiki」(ローマ字表記)を「蝋人形」に発表。この号に齋藤磯雄訳ヴィリエ・ド・リラダン「ヴィルジニイとポオル」の寄稿がある。なお、アラゴンの「20-Seiki」が収録された詩集『ウラル万歳!』(一九三四年)の中から他に三篇(「ソフコズの歌」、「同志」(部分)、「一九三〇年」(部分))をノート(「Note1937」)に試訳した。この頃の事を後年のインタビューで回想している。
「戦争中に、僕が『蝋人形』にいたのは、アラゴンの詩集『ウラル万歳!』の年だからね、あれは一九三〇年くらいですよ。だから、ちょうど学校を出た頃で、詩をわからないながら訳してさ、多少はわかってね。彼がソビエトへ行って、社会主義建設を目の前で見て、それでうたった詩。そのとき僕が訳した詩はね、「彼らは、神を投げ捨てていった」というものですよ。「神」を投げ捨てて、「ゴッド」を、神を投げ捨てて、つまり革命のことをうたった詩。」「(…)『蝋人形』をやるうちでも、「赤い」部分もあったのだよ。だってそんな頃もうアラゴンの革命詩の翻訳をやっているのだから。西條八十のところにいたおかげでね、その詩を、ローマ字で訳しているのだよ、『蝋人形』に、アラゴンのそういう詩を。だから、西條八十の傘に隠れていたのだよ、逆に言えばね。」(稲木信夫「インタビュー 大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」一九九九年 『詩人中野鈴子を追う 稲木信夫評論集』 コールサック社 二〇一四年 所収)
この頃、楠田一郎の紹介で「新領土」に参加する。
「思い出せば、もう四十年もむかしの一九三六、七年頃、それは暗い夜の時代だった。新宿一丁目の裏あたりに、まだ怪しげな曖昧な一郭があって、その近くの迷路のような小路に、「山小屋」という小さな酒場(バー)があった。まだうら若い美人の姉妹がでていて、けっこうはやっていた。文学青年やジャーナリストなどがよく集まっていた。楠田一郎も常連のひとりであった。かれはどうやら、姉娘が好きだったらしい。夕ぐれともなれば、毎晩のように、蒼白い顔をした楠田一郎が、ビールのグラスを前にして坐っていた。かれの肉体はもう結核に深くむしばまれていた。かれの席は、入口を背にした右側にあって、坐ったその四角いうしろ姿が、いまも影絵のように眼に浮んでくる…(略)/このグループは、夜も深く酩酊してくると、よくベートーベンの一三五番のクヮルテットを合唱するのであった。クヮルテットを合唱するという表現は奇妙なものだが、ハミングでそれぞれのパートをうたうのである。当時、音楽ファンのあいでは、そういった曲がはやっていたのかも知れない。いまにして思えば、酔いどれたちの、ベートーベンのクヮルテットの、そんなたわいない合唱(?)になんの意味があっただろう? だが、思い出せば、それは暗い夜の時代だった。戦争とファシズムの歯車が、ひとびとの眼にみえないところで、不吉なひびきを立てて回りはじめていた。わたしは同義語を二つならべたが、暗い時代でも、夜の時代だけでも、やはり言いたりない。いや、あの深さ、厚みは、そんな形容詞ではどうにも表現できないものかも知れない。わたしたちは希望という言葉さえ知らなかった。そんな夜のなかで、クヮルテットの合唱者(?)たちは、それによってみずからの存在をわずかにたしかめ、みずからを慰めていたのにちがいない。あるいは港で嵐をさける小舟のように、そうやって夜の過ぎさるのを待っていたのかも知れない。」(「山小屋の頃」 『楠田一郎詩集』 蜘蛛出版社 一九七七年 付録)
八月、「私は歩いて行く」(詩)を「蝋人形」に、ブルトン「シュルレアリスムの国境なき限界」を「新領土」に発表。この頃「新領土」を通して服部伸六と知り合う。(推定)
「わたしが服部伸六とはじめて出会ったのは、一九三七年頃ででもあったろうか。新宿の三越の裏通りあたりに、文学青年や絵描きのよく集まる「ノヴァ」という酒場があって、わたしもよくそこでとぐろをまいていた。新領土の集まりのあと、服部伸六ともそんなところへ行って、いっしょに飲んだような気がする。たしか、かれはまだ慶應の制服をきた美青年であったが、すでに言葉の罠で神秘をからめとったり、重層的なイメージの隙間から地獄をかいま見せるような詩を書いていて、わたしたちをひどく驚かしたのだった。」(『服部伸六詩集』宝文館出版 一九七七年 「解説」)
九月、「季節はずれの放浪(一)エスプリ・ヌウボオの道」(エッセイ)を「蝋人形」に発表。(以後断続的に連載、一九三九年四月までの計十五回。)この稿にアポリネール「鎖」の訳がある。同月、「肉体の棘」(詩)を「文芸汎論」に発表。十月、「季節はづれの放浪(二)」を「蝋人形」に発表。この稿にアルフレッド・ジャリ、ブルトン、ジャック・ヴァシエ等への言及がある。十一月、「遠近法」(詩)、エリュアール「持続」、「民衆の外に」を「蝋人形」に発表。この号に楠田一郎訳「テオクリスのエピグラム ミューズとアポロンへの献げもの」の寄稿がある。なおエリュアールの「持続」が収録された詩集『豊かな眼』(一九三六年)を読んでいた頃を後に次のように回想している。
「思い出せば、昭和十年代の後半、一九三七年頃から一九四五年頃まで、それは暗い夜の時代だった。戦争とファシズムの歯車が不吉な音をたてて回っていた。その始めの頃、わたしは、丸善から最後にとどいたエリュアールの詩集Cours naturel(自然の運行)やLes yeux fertiles(豊かな眼)をふところに入れて、暗い新宿の街をさまよっていたことを思い出す。また、やはりエリュアールの「詩的明白さ」というエッセイに感動して、それを訳出したが、このエッセイほど当時のわたしを鼓舞し、支えてくれたものはなかった。」(『松本隆晴詩集』 宝文館出版 一九七七年 「解説」)
十二月、「季節はずれの放浪(三)ダダ地方」を「蝋人形」に発表。この稿にトリスタン・ツァラ「ダダの歌」の訳、フランシス・ピカビア、マリー・ローランサン等への言及がある。同月、「抉り取られた眼は抉りとる」(詩)を「新領土」に発表。
一九三八年(昭和十三年)二十八歳
一月、エリュアール「壁にぶつけられた頭」を「蝋人形」に、「新しき愛の天体」(詩)を「新領土」に発表。二月、「季節はずれの放浪(四)ダダ地方」を「蝋人形」に発表。この稿にジャック・リガオへの言及がある。またこの号に鮎川信夫の投稿詩「逃亡」が掲載される。同月、「失われた愛の歌」(詩)を「新領土」に、ル・コルビジェ「建築は絵画に何を要求するか」を「アトリエ」に発表。三月、ジュール・シュペルヴィエル「眼に見えない獣たち」、「季節はずれの放浪(四)ダダの終焉とその足跡」を「蝋人形」に発表。この稿にロートレアモン、ピエール・ルヴェルディ等への言及がある。同月、「惨めな歌」(詩)を「新領土」に発表。四月、「飢ゑの歌」(詩)、エリュアール「過去への一瞥」(エッセイ)、「季節はずれの放浪(六)シュルレアリスムの四つ角へ」を「蝋人形」に、「夜襲」(詩)を「文芸汎論」に発表。同月、ランボー『地獄の季節』を春陽堂から出版。五月、バンジャマン・ペレ「自然は進歩を貪りくひ進歩を追ひこす」(散文詩)、「季節はずれの放浪(七)」を「蝋人形」に発表。この稿にアラゴンのシュルレアリスム小説『夢の波』、ブルトン、スーポーの共著『磁場』への言及がある。同月、「深夜の通行人」(詩)、ロラン・ド・ルネヴィル「夜の意味」(八月と計二回)を「新領土」に発表。この頃、「蝋人形」の詩欄に投稿した松本隆晴を知る。
「ある日僕に宛てた一通の封筒が届いた。それは蝋人形社の社用封筒で、差出人は特徴のある書体で大島博光とあった。僕ははっとした。蝋人形にロートレアモンの〈マルドロールの歌〉を翻訳したり、毎号〈季節はずれの放浪〉という題名で、フランスにおける超現実主義の誕生とその発展について、極めてユニークな文章を書き綴っている人の名前である。僕はその文と、またその詩に強くひかれていて、その影響も受け初めていたのだ。/「前略ごめん下さいませ。」で始まるその手紙は、自分が埴科郡西寺尾村(現在長野市)の出身であることを告げ、今度刊行されることになった信州詩人詞華集への参加を誘っているのである。後に知ったことであるが、大島博光は旧制屋代中学から早稲田大学の仏文科にすすみ、在学中からずば抜けたフランス語の力と豊かな詩魂とで知られ、西条八十の門下でも最も注目されていた詩人であった。/人生における出会いの不思議さはここにもあって、この一通の手紙が機縁となって二人の交友は極めて急速に進み、ほとんど連日のはがき交換は、スーツケースに溢れるほどになったのである。やがて大島が蝋人形の編集者となってから、僕にとって高嶺の花にも等しかったその雑誌の本欄に、毎号僕の詩が載る日がやって来るのであり、更にその編集も手伝うことにもなる。そしてその原稿依頼や入手のための走り使いには、藤村、白秋、河井酔名等の明治、大正時代以来の日本の大詩人に接する機会も与えられるのであるが、それは暫く後の日のことになる。」(松本隆晴 「大島博光と交友」 「信濃毎日新聞」 一九七六年一月二十一日)
六月、アンドレ・サルモン「アルチウル・ラムボオ」(詩)、「季節はずれの放浪(八)」を「蝋人形」に発表。この稿にエリュアールの演説「詩の摂理」(「詩的明白さ」)の訳出がある。同月、「眼覚めない獣」、「修道轆」(詩)を「新領土」に、ワシリー・カンディンスキー「具象絵画」を「アトリエ」に発表。七月、ポール・ヴァレリー「海への凝視」(散文)、フィリップ・スーポー「夜の方に」、「詩壇時評」を「蝋人形」に、「不幸なものは見てゐる」(詩)を「三田文学」に、ル・コルビジェ「絵画」を「アトリエ」に発表。また「新領土」に楠田一郎による大島訳『地獄の季節』の書評「ラムボオの血液」が発表される。八月、「抉りとられた臓腑」(詩)、「季節はずれの放浪(九)影像について」を「蝋人形」に発表。この稿にアラゴン、ブルトン、ルヴェルディ、エリュアール、ルネ・シャール、松尾芭蕉等への言及がある。この号より「新領土」を通して知り合った永田助太郎の寄稿(「英国最近の詩壇1」)始まる。同月、「伐りはらはれた林」(詩)を「新領土」に、ルネ・ユイグ「ブールデルは如何にして創造したか」、ピエル・マビイユ「スウラの素描」を「アトリエ」に発表。九月、「季節はずれの放浪(十)ふたたび影像について」を「蝋人形」に発表。この稿にボードレール、ランボー、マラルメ等への言及がある。同月、「幸福」(詩)を「新領土」に、「小宇宙のために」(詩)を「文芸汎論」に、「詩学的見地からみた俳句〈主として超現実主義の立場より〉」を「俳句研究」(改造社)に発表。十月、「季節はずれの放浪(十一)詩人の使命」を「蝋人形」に発表。この稿にノヴァーリス、ランボー、ロートレアモン、ヴィクトル・ユゴー等への言及がある。この頃壷井繁治と知り合う。(推定)「あの戦争前夜の 一九三八年頃の秋/はじめてわたしは あなたに会った/新宿の ひどい ひとごみのなかで/あなたは 灰いろのソフトをかぶって/脇には 黒皮の鞄をかかえていた/勤め先からの 帰りらしく……」(「壷井繁治への挽歌」 「詩人会議」 一九七五年十一月)十一月、「季節はずれの放浪(十二)詩人とその時代」を「蝋人形」に発表。この稿にジャン・カッスー、イヴァン・ゴル、シュペルヴィエル等への言及がある。同月、「詩と社会」(評論)を「文芸汎論」に、カンディンスキー「わが木版画」、マン・レイ「写真は慰める」を「アトリエ」に発表。十二月、「季節はずれの放浪(十三)言葉について」を「蝋人形」に発表。この稿にハイデッガーのヘルダーリン論(『ヘルダーリンの詩の本質』 斎藤信治訳 理想社 一九三八年)への言及がある。同月、「欲望のやうに」、「沈黙」(詩)を「新領土」に発表。
(重田暁輝編集・大島朋光監修)
参考文献
『大島博光全詩集』 青磁社 一九八六年
『服部伸六詩集』 宝文館出版 一九七七年
『松本隆晴詩集』 宝文館出版 一九七七年
『楠田一郎詩集』 蜘蛛出版社 一九七七年
『西條八十全集 十八巻 別巻 著作目録・年譜』 国書刊行会 二〇一四年
西條嫩子 『父 西條八十』 中央公論社 一九七五年
西條嫩子 『父西條八十は私の白鳥だった』 集英社 一九七八年
稲木信夫 『詩人中野鈴子を追う 稲木信夫評論集』 コールサック社 二〇一四年
和田博文監修 鶴岡善久編『コレクション・都市モダニズム詩誌3 シュールレアリスム』 ゆまに書房 二〇〇九年
森獏郎 「西条八十と『蝋人形』と大島博光」 「狼煙」 二〇〇六年十月
森獏郎 「『新領土』の詩人大島博光」 同右
猪熊雄治 「『蝋人形』の検討3」 「學苑」 二〇一〇年三月
猪熊雄治 「『蝋人形』の検討4」 「學苑」 二〇一三月一月
秋元裕子 「一九二五年一〇月~一九四一年八月におけるSurréalismeの著作物の翻訳(および解説・注釈)」 「年報新人文学」 二〇一五年十二月
(『狼煙』82号 2017年3月)
一九三六年(昭和十一年)二十六歳
二月、ロートレアモン『マルドロオルの歌』を「蝋人形」に連載を始める。(十二月まで計十回。「第六の歌」のうち「第四の歌」まで)四月、西條嫩子の詩「バス」、「夕暮」を「蝋人形」に掲載する。この経緯を西條嫩子は『父 西條八十』(一九七五年 中央公論社)のなかで書いている。
「(…)ある日、父の主宰している詩誌の主筆で、仏文大学院生の大島博光氏が庭にいる私に話しかけて言うには、「お嬢さん、先生が授業中、ふたばこさんの和歌を読みましたよ。嬉しそうに朗々と。あれは和歌じゃない。詩の感覚だな。僕は面白いと思いましたよ。」/私は口もきけないほどびっくりしてしまった。(略 自作詩「夕暮」の引用の後)/これはまもなく、大島氏が『蝋人形』にのせてくれた私の十四歳の作品である。親馬鹿の父にこたえて私は詩の径をとぼとぼ辿りはじめた。」(なお文中「仏文大学院生」とあるが、大島が大学院に進学していたかどうかは不明)
また時期は数年前になるが同じく西條嫩子による次のような記述がある。
「父の主宰する詩誌『蝋人形』の編集をやっていた大島博光氏もランボオの傾倒者で、十三、四歳のお下げ髪の私に声をかけると、/「お嬢ちゃん、おお、季節よ、おお、城よ、ランボオの詩はすばらしいですよ」/と両手を挙げて謳歌して涙ぐみさえしていたのだ。」(『父西條八十は私の白鳥だった』 集英社 一九七八年)
五月、ジャン・コクトーが来日し、案内役を務めた堀口大學の付き添いでコクトーに会う。六月、「ランボウの現代的意義」を「エクリバン」(中野秀人・大木惇夫共同編集)に発表。八月、「不眠のうた」(詩)を「蝋人形」に発表。九月、アラゴン「ジョン・ハートフイルドと革命美」を「Ecole de Tokio」(末永胤生(画家)発行)に発表。なおシュルレアリスムの芸術団体「エコール・ド・東京」を結成したメンバーのひとり吉井忠(画家)との交流があったのはこの時期だと推定される。
「大島 吉井さんは御存じですかね、今の歌舞伎町のあたりに「武蔵野サロン」って喫茶店があって、絵描きさんたち、とりわけ、シュルレアリズムの方たちの会なんかあったでしょう。/吉井(忠) ええ、ええ。/大島 あなたもいらしていたんですか。/吉井 行ってました。あのときは、あなたと滝口修造の話をわれわれは聞いているんです。で、その頃、野田秀夫とか、それから寺田(政明)かな、アメリカから来たばかりのそれを聞いたことがある。だから、それ以来、大島さんと滝口修造の二人は、ずっとわれわれの間ではシュルレアリズムの開拓者になっているんです。/大島 二人ね。あれは何年頃でしたっけ。/吉井 昭和の初め、といっても十年前後かな。」(座談会―『NOVA』の時代を回顧して(上) 『NOVA』通信第一号 一九八八年)
同月、イリヤ・エレンブルグ『西方の作家たち』(橡書房)を小出峻と共訳で出版。十二月、「ランボオの手紙」(翻訳)を「文芸汎論」に発表。
一九三七年(昭和十二年)二十七歳
一月、エレンブルグ「スュウルレアリスト」を「蝋人形」に、ロートレアモン『マルドロオルの歌』(「第一の歌」)を「Ecole de Tokio」に発表。二月、「蝋人形社」に入社し、門田譲に代わって加藤憲治と共に「蝋人形」編集担当となる。同月、「候鳥」「労働」「交流」(詩)を「蝋人形」に発表。三月、フィリップ・スーポー「大海がある」を「蝋人形」に発表。四月、ランボー「渇」、アンドレ・ブルトン「サンボリスムの曲線に沿ひて」を「蝋人形」に発表。この号に滝口修造の寄稿(エッセイ「貝殻と詩人」)がある。五月、「エレヂー」(詩・ローマ字表記)、「詩壇時評」を「蝋人形」に発表。この号に北園克衛の寄稿(詩)がある。六月、アラゴン「20-Seiki」(ローマ字表記)を「蝋人形」に発表。この号に齋藤磯雄訳ヴィリエ・ド・リラダン「ヴィルジニイとポオル」の寄稿がある。なお、アラゴンの「20-Seiki」が収録された詩集『ウラル万歳!』(一九三四年)の中から他に三篇(「ソフコズの歌」、「同志」(部分)、「一九三〇年」(部分))をノート(「Note1937」)に試訳した。この頃の事を後年のインタビューで回想している。
「戦争中に、僕が『蝋人形』にいたのは、アラゴンの詩集『ウラル万歳!』の年だからね、あれは一九三〇年くらいですよ。だから、ちょうど学校を出た頃で、詩をわからないながら訳してさ、多少はわかってね。彼がソビエトへ行って、社会主義建設を目の前で見て、それでうたった詩。そのとき僕が訳した詩はね、「彼らは、神を投げ捨てていった」というものですよ。「神」を投げ捨てて、「ゴッド」を、神を投げ捨てて、つまり革命のことをうたった詩。」「(…)『蝋人形』をやるうちでも、「赤い」部分もあったのだよ。だってそんな頃もうアラゴンの革命詩の翻訳をやっているのだから。西條八十のところにいたおかげでね、その詩を、ローマ字で訳しているのだよ、『蝋人形』に、アラゴンのそういう詩を。だから、西條八十の傘に隠れていたのだよ、逆に言えばね。」(稲木信夫「インタビュー 大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」一九九九年 『詩人中野鈴子を追う 稲木信夫評論集』 コールサック社 二〇一四年 所収)
この頃、楠田一郎の紹介で「新領土」に参加する。
「思い出せば、もう四十年もむかしの一九三六、七年頃、それは暗い夜の時代だった。新宿一丁目の裏あたりに、まだ怪しげな曖昧な一郭があって、その近くの迷路のような小路に、「山小屋」という小さな酒場(バー)があった。まだうら若い美人の姉妹がでていて、けっこうはやっていた。文学青年やジャーナリストなどがよく集まっていた。楠田一郎も常連のひとりであった。かれはどうやら、姉娘が好きだったらしい。夕ぐれともなれば、毎晩のように、蒼白い顔をした楠田一郎が、ビールのグラスを前にして坐っていた。かれの肉体はもう結核に深くむしばまれていた。かれの席は、入口を背にした右側にあって、坐ったその四角いうしろ姿が、いまも影絵のように眼に浮んでくる…(略)/このグループは、夜も深く酩酊してくると、よくベートーベンの一三五番のクヮルテットを合唱するのであった。クヮルテットを合唱するという表現は奇妙なものだが、ハミングでそれぞれのパートをうたうのである。当時、音楽ファンのあいでは、そういった曲がはやっていたのかも知れない。いまにして思えば、酔いどれたちの、ベートーベンのクヮルテットの、そんなたわいない合唱(?)になんの意味があっただろう? だが、思い出せば、それは暗い夜の時代だった。戦争とファシズムの歯車が、ひとびとの眼にみえないところで、不吉なひびきを立てて回りはじめていた。わたしは同義語を二つならべたが、暗い時代でも、夜の時代だけでも、やはり言いたりない。いや、あの深さ、厚みは、そんな形容詞ではどうにも表現できないものかも知れない。わたしたちは希望という言葉さえ知らなかった。そんな夜のなかで、クヮルテットの合唱者(?)たちは、それによってみずからの存在をわずかにたしかめ、みずからを慰めていたのにちがいない。あるいは港で嵐をさける小舟のように、そうやって夜の過ぎさるのを待っていたのかも知れない。」(「山小屋の頃」 『楠田一郎詩集』 蜘蛛出版社 一九七七年 付録)
八月、「私は歩いて行く」(詩)を「蝋人形」に、ブルトン「シュルレアリスムの国境なき限界」を「新領土」に発表。この頃「新領土」を通して服部伸六と知り合う。(推定)
「わたしが服部伸六とはじめて出会ったのは、一九三七年頃ででもあったろうか。新宿の三越の裏通りあたりに、文学青年や絵描きのよく集まる「ノヴァ」という酒場があって、わたしもよくそこでとぐろをまいていた。新領土の集まりのあと、服部伸六ともそんなところへ行って、いっしょに飲んだような気がする。たしか、かれはまだ慶應の制服をきた美青年であったが、すでに言葉の罠で神秘をからめとったり、重層的なイメージの隙間から地獄をかいま見せるような詩を書いていて、わたしたちをひどく驚かしたのだった。」(『服部伸六詩集』宝文館出版 一九七七年 「解説」)
九月、「季節はずれの放浪(一)エスプリ・ヌウボオの道」(エッセイ)を「蝋人形」に発表。(以後断続的に連載、一九三九年四月までの計十五回。)この稿にアポリネール「鎖」の訳がある。同月、「肉体の棘」(詩)を「文芸汎論」に発表。十月、「季節はづれの放浪(二)」を「蝋人形」に発表。この稿にアルフレッド・ジャリ、ブルトン、ジャック・ヴァシエ等への言及がある。十一月、「遠近法」(詩)、エリュアール「持続」、「民衆の外に」を「蝋人形」に発表。この号に楠田一郎訳「テオクリスのエピグラム ミューズとアポロンへの献げもの」の寄稿がある。なおエリュアールの「持続」が収録された詩集『豊かな眼』(一九三六年)を読んでいた頃を後に次のように回想している。
「思い出せば、昭和十年代の後半、一九三七年頃から一九四五年頃まで、それは暗い夜の時代だった。戦争とファシズムの歯車が不吉な音をたてて回っていた。その始めの頃、わたしは、丸善から最後にとどいたエリュアールの詩集Cours naturel(自然の運行)やLes yeux fertiles(豊かな眼)をふところに入れて、暗い新宿の街をさまよっていたことを思い出す。また、やはりエリュアールの「詩的明白さ」というエッセイに感動して、それを訳出したが、このエッセイほど当時のわたしを鼓舞し、支えてくれたものはなかった。」(『松本隆晴詩集』 宝文館出版 一九七七年 「解説」)
十二月、「季節はずれの放浪(三)ダダ地方」を「蝋人形」に発表。この稿にトリスタン・ツァラ「ダダの歌」の訳、フランシス・ピカビア、マリー・ローランサン等への言及がある。同月、「抉り取られた眼は抉りとる」(詩)を「新領土」に発表。
一九三八年(昭和十三年)二十八歳
一月、エリュアール「壁にぶつけられた頭」を「蝋人形」に、「新しき愛の天体」(詩)を「新領土」に発表。二月、「季節はずれの放浪(四)ダダ地方」を「蝋人形」に発表。この稿にジャック・リガオへの言及がある。またこの号に鮎川信夫の投稿詩「逃亡」が掲載される。同月、「失われた愛の歌」(詩)を「新領土」に、ル・コルビジェ「建築は絵画に何を要求するか」を「アトリエ」に発表。三月、ジュール・シュペルヴィエル「眼に見えない獣たち」、「季節はずれの放浪(四)ダダの終焉とその足跡」を「蝋人形」に発表。この稿にロートレアモン、ピエール・ルヴェルディ等への言及がある。同月、「惨めな歌」(詩)を「新領土」に発表。四月、「飢ゑの歌」(詩)、エリュアール「過去への一瞥」(エッセイ)、「季節はずれの放浪(六)シュルレアリスムの四つ角へ」を「蝋人形」に、「夜襲」(詩)を「文芸汎論」に発表。同月、ランボー『地獄の季節』を春陽堂から出版。五月、バンジャマン・ペレ「自然は進歩を貪りくひ進歩を追ひこす」(散文詩)、「季節はずれの放浪(七)」を「蝋人形」に発表。この稿にアラゴンのシュルレアリスム小説『夢の波』、ブルトン、スーポーの共著『磁場』への言及がある。同月、「深夜の通行人」(詩)、ロラン・ド・ルネヴィル「夜の意味」(八月と計二回)を「新領土」に発表。この頃、「蝋人形」の詩欄に投稿した松本隆晴を知る。
「ある日僕に宛てた一通の封筒が届いた。それは蝋人形社の社用封筒で、差出人は特徴のある書体で大島博光とあった。僕ははっとした。蝋人形にロートレアモンの〈マルドロールの歌〉を翻訳したり、毎号〈季節はずれの放浪〉という題名で、フランスにおける超現実主義の誕生とその発展について、極めてユニークな文章を書き綴っている人の名前である。僕はその文と、またその詩に強くひかれていて、その影響も受け初めていたのだ。/「前略ごめん下さいませ。」で始まるその手紙は、自分が埴科郡西寺尾村(現在長野市)の出身であることを告げ、今度刊行されることになった信州詩人詞華集への参加を誘っているのである。後に知ったことであるが、大島博光は旧制屋代中学から早稲田大学の仏文科にすすみ、在学中からずば抜けたフランス語の力と豊かな詩魂とで知られ、西条八十の門下でも最も注目されていた詩人であった。/人生における出会いの不思議さはここにもあって、この一通の手紙が機縁となって二人の交友は極めて急速に進み、ほとんど連日のはがき交換は、スーツケースに溢れるほどになったのである。やがて大島が蝋人形の編集者となってから、僕にとって高嶺の花にも等しかったその雑誌の本欄に、毎号僕の詩が載る日がやって来るのであり、更にその編集も手伝うことにもなる。そしてその原稿依頼や入手のための走り使いには、藤村、白秋、河井酔名等の明治、大正時代以来の日本の大詩人に接する機会も与えられるのであるが、それは暫く後の日のことになる。」(松本隆晴 「大島博光と交友」 「信濃毎日新聞」 一九七六年一月二十一日)
六月、アンドレ・サルモン「アルチウル・ラムボオ」(詩)、「季節はずれの放浪(八)」を「蝋人形」に発表。この稿にエリュアールの演説「詩の摂理」(「詩的明白さ」)の訳出がある。同月、「眼覚めない獣」、「修道轆」(詩)を「新領土」に、ワシリー・カンディンスキー「具象絵画」を「アトリエ」に発表。七月、ポール・ヴァレリー「海への凝視」(散文)、フィリップ・スーポー「夜の方に」、「詩壇時評」を「蝋人形」に、「不幸なものは見てゐる」(詩)を「三田文学」に、ル・コルビジェ「絵画」を「アトリエ」に発表。また「新領土」に楠田一郎による大島訳『地獄の季節』の書評「ラムボオの血液」が発表される。八月、「抉りとられた臓腑」(詩)、「季節はずれの放浪(九)影像について」を「蝋人形」に発表。この稿にアラゴン、ブルトン、ルヴェルディ、エリュアール、ルネ・シャール、松尾芭蕉等への言及がある。この号より「新領土」を通して知り合った永田助太郎の寄稿(「英国最近の詩壇1」)始まる。同月、「伐りはらはれた林」(詩)を「新領土」に、ルネ・ユイグ「ブールデルは如何にして創造したか」、ピエル・マビイユ「スウラの素描」を「アトリエ」に発表。九月、「季節はずれの放浪(十)ふたたび影像について」を「蝋人形」に発表。この稿にボードレール、ランボー、マラルメ等への言及がある。同月、「幸福」(詩)を「新領土」に、「小宇宙のために」(詩)を「文芸汎論」に、「詩学的見地からみた俳句〈主として超現実主義の立場より〉」を「俳句研究」(改造社)に発表。十月、「季節はずれの放浪(十一)詩人の使命」を「蝋人形」に発表。この稿にノヴァーリス、ランボー、ロートレアモン、ヴィクトル・ユゴー等への言及がある。この頃壷井繁治と知り合う。(推定)「あの戦争前夜の 一九三八年頃の秋/はじめてわたしは あなたに会った/新宿の ひどい ひとごみのなかで/あなたは 灰いろのソフトをかぶって/脇には 黒皮の鞄をかかえていた/勤め先からの 帰りらしく……」(「壷井繁治への挽歌」 「詩人会議」 一九七五年十一月)十一月、「季節はずれの放浪(十二)詩人とその時代」を「蝋人形」に発表。この稿にジャン・カッスー、イヴァン・ゴル、シュペルヴィエル等への言及がある。同月、「詩と社会」(評論)を「文芸汎論」に、カンディンスキー「わが木版画」、マン・レイ「写真は慰める」を「アトリエ」に発表。十二月、「季節はずれの放浪(十三)言葉について」を「蝋人形」に発表。この稿にハイデッガーのヘルダーリン論(『ヘルダーリンの詩の本質』 斎藤信治訳 理想社 一九三八年)への言及がある。同月、「欲望のやうに」、「沈黙」(詩)を「新領土」に発表。
(重田暁輝編集・大島朋光監修)
参考文献
『大島博光全詩集』 青磁社 一九八六年
『服部伸六詩集』 宝文館出版 一九七七年
『松本隆晴詩集』 宝文館出版 一九七七年
『楠田一郎詩集』 蜘蛛出版社 一九七七年
『西條八十全集 十八巻 別巻 著作目録・年譜』 国書刊行会 二〇一四年
西條嫩子 『父 西條八十』 中央公論社 一九七五年
西條嫩子 『父西條八十は私の白鳥だった』 集英社 一九七八年
稲木信夫 『詩人中野鈴子を追う 稲木信夫評論集』 コールサック社 二〇一四年
和田博文監修 鶴岡善久編『コレクション・都市モダニズム詩誌3 シュールレアリスム』 ゆまに書房 二〇〇九年
森獏郎 「西条八十と『蝋人形』と大島博光」 「狼煙」 二〇〇六年十月
森獏郎 「『新領土』の詩人大島博光」 同右
猪熊雄治 「『蝋人形』の検討3」 「學苑」 二〇一〇年三月
猪熊雄治 「『蝋人形』の検討4」 「學苑」 二〇一三月一月
秋元裕子 「一九二五年一〇月~一九四一年八月におけるSurréalismeの著作物の翻訳(および解説・注釈)」 「年報新人文学」 二〇一五年十二月
(『狼煙』82号 2017年3月)
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