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海外詩の精神は ”反抗” だよ(下)

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海外誌

  ランボオの前に出会ったエンゲルスの著作

奥田 フランス語の勉強は、大学に入られてからですか。
大島 そうだよ。中学時代は英語だけれど、今から思うと、その頃ぼくらが学んだ田舎の中学校には、いい英語の先生がいたんだね。ラフカディオ・ハーンの『Kwaidan(怪談)』を習った。
奥田 ぼくらも、中学時代に教わりました。
大島 そのときぼくは、こういう外国文学を翻訳するのはいいな、と思った。そういういろんなことが、ぼくを外国文学に向かわせる大きな呼び水というか、きっかけになっているような気がする。
奥田 そんなハイカラなことなどほとんどない家柄で、フランス文学をやるといったとき、お父さんの反応はいかがでしたか。
大島 もうなんにも言わずに、お前の好きなことをやれ、と。それは、ほんとうにありがたかったね。まあ、フランス文学をやって食えなくて将来乞食をしようと(笑い)、お前の世話になるつもりはない……。だから、好きなようにやれ(笑い)というわけさ。
奥田 その当時、文学というのは、道楽者のやることですものね。
大島 そうさ。おまけに外国文学だからなお悪い(笑い)。でも、今のように、教育を見栄や投資としては考えていないから、何をしていようと生きてさえいればいい(笑い)、という考えだった。
奥田 年表には「生家は自作の小地主」とありますが、その当時に息子を東京の大学に入れるくらいですから、相当大きな家だったのでしょう。人も何人か使っていらしたのでしょう?
大島 人は使っていたけれど、そんなたいしたことはないよ。
奥田 大島さんは、ご長男じゃありませんか。
大島 そうなんだけど、あとは心配するなというわけ(笑い)。
奥田 中学時代から文学に関心をおもちだそうですが、その頃は他の科目も熱心に勉強されましたか。
大島 いやあ、中学時代はクラスでもビリから数えたほうが早いくらい(笑い)悪かった。というのは、もうその頃からペシミズムに影響されて、ドストイエフスキーなどを読み耽って、学校の勉強は意識的にしないのだもの。落第さえしなければいいだろう、というハラだからね (笑い)それでも中学を出てから、こんなことをしていてもいけない、学校へ行って勉強したいなと思って、それから、受験勉強を始めたんだ。それで早稲田を受けたとき、ぼくよりずっと席順が上のはずの同級生が落ちて、ぼくの方が入った(笑い)。
奥田 それだけ受験勉強を一生懸命にやったということですか。
大島 一年浪人して駿台予備校に通い、それなりにはやったね。
奥田 それで、大学に入ってランボオにめぐり合うことになる。
大島 そう。本当は、その前にエンゲルスにぶつかっているんだ。それは予科、今でいえば高等学校時代だね。読書研究会で『空想と科学』や『共産党宣言』などをいろいろ読んだ。三・一五事件(一九二八年)の翌年あたり、学生運動の最後の高まりを見せた頃で、そんな運動をしないものは学生じゃないみたいに思われていた。
奥田 それで、ビラや『戦旗』などの配布を手伝って捕まり、一か月近くも留置場に入れられたわけですね、
大島 ビラ配りしてすぐに捕まったけれど、ぼくが″生き残った”のは、どこの組織にもまだ属していない、学生運動の末端の一運動員に過ぎなかったので、上の方へたぐりようもなかったからなんだ。もっとも、学生の中には青年共産同盟のシンパもいたかもしれないけれども、こちらは何も知らない下っ端だったから……。そうこうしているうちに、学生の組織が全部やられて、後はやろうとしても何もやれない状況になってしまった それで、ぼくらは有耶無耶(うやむや)になって、なんというか、一種の脱落状態になってしまった……。
奥田 そんな状態では、就職などとてもできませんね。
大島 できもしないし、第一、世の中全体がすごい不況だった。
奥田 『大学は出たけれど』という映画が流行語になったりした時代ですね。その頃『東京行進曲』を書いたとき、西条さんは最初、三番目か四番目のところを「長い髪してマルクスボーイ/今日もかかえる赤い恋」としたんだそうです。当時よく読まれたコロンタイの著書『赤い恋』のことですね。ところがレコード会社が用心して書き直しさせられ、「シネマ見ましょかお茶のみましょか/いっそ小田急で逃げましょか」にしたというのを読んだことがあります。職人・西条八十の面目躍如たるエピソード(笑い)ですが、学生の間にそんな風俗が満ちていたという証拠でもありますか。さすが、早稲田の先生をしていただけあって、若者たちの状況をかなりリアルに描いたのではないでしょうか。
大島 そういうことはありそうだねえ。それで、その頃からちょうどシュールリアリズム詩を紹介するような雑誌もあらわれて……、こともあろうに、あの戦争のさなかに、アラゴンの『ウラル万歳』という詩集が売られていたんだよ。
奥田 それは原書ですか。丸善みたいな所に……?
大島 どこだか忘れたけれど、輸入元の書店だった。そして、フランス人民戦線やそれに類したニュースにほのかに関心をもっていた。スペイン戦争の頃には東京でも密かにそのポスターが貼ってあったりしたよ。今は共産党にいる宮森(繁)君がそのころPCL(東宝の前身の映画会社)で働いていたが、彼のアトリエなどに行くと、そういうポスターが貼ってあった。
奥田 それでは、ゲルニカの話などもご存じでしたか。
大島 うん、英語やフランス語の情報を通じて、ほのかにね。

  "反抗精神" 抜きの外側ばかりが紹介されてきた

奥田 戦争が終わった直後は、どこに詩を発表されていたんですか。
大島 どこにも発表するところがないので、それで、『歌声』とか『角笛』などという雑誌を自分で作っていたんだよ。
奥田 『蠟人形』は、戦後になって復刊されていますね。
大島 ええ、でももうそちらには参加しなかったから。
奥田 戦後すぐに共産党に入党していらしたから、そういうものとは″決別”という考えでもあったのでしょうね。
大島 まあ、そうだね。『蠟人形』から『新領土』あたりまで、当時の海外の新しい詩の傾向を紹介することはいろいろと試みられたけれども、日本における一番の特徴は、"反抗がない”ということだよ。あの時代は、共産党はじめ、プロレタリア文化運動・文学運動などに対しても治安維持法を中心とする弾圧があるため、詩人やインテリゲンチャはびくびくして、そういうところへ絶対に寄り付かない。″政治" や "現実” や "人生" などは扱わない、見向きもしない。そういう言葉すら注意深く遠ざけて使わないという、そういう時代だった。
 だからあの頃のモダニズム詩は、いかにもフランスのシュールリアリズムを紹介しているように見えるけれども、中身は全然違っている。向こうの精神というか、核にあるものは "反抗″だものね。向こうはそれを堂々とやっているのに、こちらは形式だけで、中身は全然空っぽ、つまり風俗的にだけ取り入れている。北園克衛の詩がシュールなどといわれるのはまったく違うね。ところが、戦後、あの北園克衛を研究するために金を貰ってアメリカから研究にやってきた青年がいるくらいだからね。あれが日本のモダニズムで、意味があると思われているとは、まったく不思議なことだよ(笑い)。
奥田 いわば、魂抜きになっている……?
大島 ああ、魂抜きの、無内容のままで、詩を作ってみたって、何になるのだろう。こうした ″反抗抜き" の構図は、戦前・戦中ももちろんそうだけれど、現在でも、それは根本的には変わっていないと思うよ。こんなに言論・表現が自由になっても、そのものがもっている "反抗”の精神や本質は伝えようとはしないのだから。
奥田 それは、詩や文学だけでなく、フォークソングだとかロックなどのそもそもの精神だとか歌詞などでも、そういう傾向があるといわれていますね。つまり、アンコ抜きの饅頭を、「これこそ新しい饅頭だ」(笑い)といって売っている。新しい芸術のスタイルや傾向が生み出されるときは、既製のものに対する "反抗精神″ がバネになっていると思うのですが、日本に入ってくると、なぜかアンコ抜きになっていて、表面的な部分だけが紹介される。
大島 反抗的ということは、つまり一つの批評精神だからね。

 "形式" を考えてみると詩の世界も豊かになる

奥田 翻訳は若い頃からなさっていますが、翻訳をめぐってはよく、異なる文化や外国のことばをどこまで正確に、あるいは忠実に移せるものかということが論議になりますね。とくに詩の場合、そのことが大切だと思いますが、詩の心を移すほかに、やはり、ことばの響きや音楽性などに注意されたり、苦心されたりしますか。
大島 それはアラゴンの詩をみればそういう思いをするし、他の人の散文詩ではそんなことを全然考慮しなくてもいい場合もある。
奥田 ただ、現在の日本における自由詩は韻を踏む必要もないし、行数や形式的な制限は何もないでしょう?
大島 日本に限らず、現在自由詩といえば、どこの国だって形式的には自由だよ(笑い)。しかし、それが果たして詩を創る場合に有利なことなのかどうかは、考えてみるべき課題ではあるよ。
 中国の詩ではご承知のように、形式に対する特有の決まりがあるでしょう。日本でも短歌の流れから俳句が生まれてきたように、そのような広く国民に受け入れられた伝統的な形式を、たとえば島崎藤村などは、どんなふうに受け継いだのだろうか。
 そのように考えると、外国詩の場合のようにそんなにきっちりしたものではなくても、また、本来的を形式は短歌や俳句にあったとしても、詩のほうにも、それに近い形式的な何かを作り出しても悪くはないと思うわけだよ。形式というものがそれだけ強いということは、俳句や短歌が今日、あれだけ多くの作者や読者愛好者をかかえているのをみてもわかるだろう。
奥田 詩を愛好する人口よりも、絶対に多いですからね。
大島 詩の″形式的な自由”のおかげでみんながバラバラに「自分の詩はこれだ」と提出してみても、客観的にその中にどれだけ詩の"含有量"があるかといえば(笑い)、非常に疑問だね。とにかく、まったく歯止めなしよりは、何か "形式″を考えていろいろやってみた方が、詩が豊かになることは確かだよ。
奥田 その後、結核はそれほど進行しなかったのですか。
大島 戦後も微熱が出る時期がかなり続いたけれど、幸い悪化せずに戦後を迎え、手術をしたり良い薬ができたので療養しながら生きながらえてきたら、いつのまにかすっかり治っていた(笑い)。
奥田 菌のほうでも諦めたのでしょうか(笑い)。先生の西条八十をこえて「八十六歳になられるとか。長生きのコツはなんですか。
大島 タバコをきっぱりとやめたことだよ(笑い)。食べ物もおいしいし、長生きしたかったら君もやってごらんよ(笑い)。(了)

(「詩人会議」1997.3)
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