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プ口セリアンドの森

ここでは、「プ口セリアンドの森」 に関する記事を紹介しています。
プ口セリアンドの森

 アラゴンが『殉難者たちの証人』を書いていたとき、ドイツ軍の赤と黒のポスターが、一九四二年三月、占領軍にたいする破壊活動で銃殺された七人の若者の名前を知らせた。五月には、すでに書いたように、ポリッツェル、ドゥクールらが処刑され、アラゴンは「詩法」を彼らにささげた。この頃、アラゴンは「プロセリアンド」を書く。ブルターニュの古い神話が眼の前の現実に重ねられ、新しいフランスの英雄たちの偉大さが告知される。
 「一九四一年にもまして一九四二年には、フランスじゅうがプロセリアンドの森に似ていた。森のなかで、ヴィシイの魔法使いどもとゲルマニアの龍騎兵どもが、すべての言葉に呪文めいた、ゆがめた意味あいを与えていた。もはや何ものもそのものの名前で呼ばれなかった。あらゆる偉大さが卑(いや)しめられ、美徳は嘲笑され迫害された。ああ、それは奥方たちが魔法にかけられ、姫君たちが囚われる時代であった。いたるところの路上で遭遇戦が起こった。突如として現れた騎士たちが年寄りや子どもたちを助けた。墜格子(おとしごうし)を揚げた城からは不審な呻めき声が聞こえてきた。時が進むにつれて、ますます多くの無名の騎士たちが武器を手にとって立ち上がった。かれらの名はロジェやピエールであり、ダニエルやジャンであった。ますますたくさんの勇士たちが現われ、かれらの武勲(いさおし)は武装した兵隊や首切り人や、鬼どもや大男どもの眼をかすめて口から口へと、フランスの森じゅうに伝えられた……」(「詩における歴史的正確さについて」)
 「プロセリアンド」は一九四二年十二月三十一日『カイエ・デュ・ローヌ』誌に発表された。サドゥールはこの詩の一部分を解く手がかりを与えている。

  わたしは聞く 犠牲(いけにえ)となったきみたちの声を
  わたしはきみたちを信じた
  いやわたしはきみを忘れはしなかった 鉄を曲げる男よ(タンボー)
  きみはたった一言(ひとこと)で街じゅうのものを振り向かせた
  きみをもまた忘れはしない きみは近づく車を見る
  澄んだ転轍手の眼を生に向けていた(ピエル・セマール)
  わたしはまたきみを忘れなかった 赤毛の哲学者よ(ポリッツェル)
  また白髪の年の前に休むのを潔(いさぎよ)しとしなかったきみをも(リュシアン・サンペィ)
  そして白鳥のように歌ったあの男の思い出も
  彼はあのフェニキアの粘土で作られた王子にも似ていた
  その見ごとさの秘密は古代から一度も発見されなかった(ガブリエル・ペリ)
  わたしはいつかきみらのように死ねるだろうか
  だがこれはただきみらとわたしだけのことだ
  道なかばに倒れたわが戦友たちよ

 詩句の下に書き込まれた名前が、サドゥールの示した鍵である。ここでも人間と武勲(いさおし)が歌われているのである。
 クロード・ロワは一九四二年にアラゴン夫妻と知合いになった。かれの証言は当時のアラゴンの状況をみごとに要約している。
 「アラゴンとエルザは、あの足枷(あしかせ)をはめられた不幸な数年ほど、幸福で自由だったことはかつてなかったように思われる。激しい調子でしかも闊達に発せられたアラゴンの言葉は、フランスのはじからはじへとひびき渡った……アラゴンは活動家としての生活のなかで、ハリコフ会議以来味わわなかった(とわたしの怖れる)楽しい自由を味わっていた……」(『わたし』)
 この頃、アラゴンは小説『オウレリアン』の制作で愛の夢想にふけりながら、一方ではその怒りを『グレヴァン蠟人形館』の痛烈な風刺にぶちまけていたのである。

新日本新書『アラゴン』

タンボー
タンボー(左から二人目)、ギイ・モケ(右端)ら 1941年10月14日、シャトーブリアンの収容所にて

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