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ランボオの故郷シャルルヴィル(6)黒いムーズ河

ここでは、「ランボオの故郷シャルルヴィル(6)黒いムーズ河」 に関する記事を紹介しています。
 黒いムーズ河

 博物館を出て向うを見ると、「黒いムーズ」河が、褐色のささにごりを浮かべて、流れるともなくゆっくりと流れていた。水量のたっぷりある、利根川の中流ほどに広い大きな河だが、日本の河のようにせせらぎの音をたてて流れるというおもむきは全くない。この河に面したマドレェヌ河岸は、今はランボオ河岸とよばれていて、三,四人の釣りびとが糸を垂れていた。この河岸の家に、ランボオは1869年から1875年まで住んでいた。『酔いどれ船』はそこで書かれた。ちょっと下流の辺りに船着場があって、むかしは荷物を積んだ船が行き交っていた。ランボオはそれを窓の下に眺めて暮らした。こうしてこの見なれた風景は、『酔いどれ船』の詩想を若い詩人に与えずにはおかなかったのであろう。

 おれは  非情の「川」をくだっていたとき
 もう 舟曳きたちに導かれるわが身を忘れはてた
 ……
 おれは 舟乗りたちのことも 気にかけず
 フラマンの小麦や イギリスの綿を運んだ

 ドラエイの回想によれば、少年のランボオはマドレェヌ河岸から川辺に降りて、兄のフレデリックと一緒に、あたりにつないであった舟に乗り、舟を揺さぶって波を荒だてる遊びに興じたと言う。「アルチュルは舟の中に腹ばいになって、波がだんだん静まって平らになるのを見ていた、彼の眼は食い入るように深い水にじっと注がれていた」(ドラエイ)ランボオはその時もうつぶやいていたのかもしれない。

 おお おれの龍骨よ 砕けろ おれは海へ行こう

 さて、さっきのケースの中の説明書に戻って言えば、ランボオが1871年3月から5月末にかけてのパリ・コミューヌに参加したのかどうか、その期間にパリにいたことがあるのかどうか、ということがよく問題になる。ケースの中の説明書も疑問を投げているわけである。しかし、はっきりわかっていることは──しかも重要なことは、ランボオがコミューヌを讃える『ジャンヌ・マリーの手』を書き、『再び賑わいに返えるパリ』『パリ戦争の歌』などにおいて、コミューヌを圧殺したティエールの輩を痛烈に罵倒し、風刺したことである。
『パリ・コミューヌ史』の著者で詩人のジョルジュ・ソリヤも、なぜコミューヌに関心を抱いたか、という一文のなかに、こう書いている。

 「……わが国のもっとも偉大な詩人であるアルチュル・ランボオは、このパリの春を「輝くばかりの美しさ」と歌い、血にまみれたコミューヌの終焉とともに、「この時代は崩れ去った」とつけ加えた。難破した一つの時代!「頭と二つの乳房を『未来』の方に向けた なかば死んだ首都パリ」の殉難!しかしそれはまた新しい世界の誕生の約束であった。コミューヌはわたしには一度にそれらすべてのもののように思われた……」
 はっきりしていることは、ランボオはパリ・コミューヌの時代の太陽のひかりの下で書いた詩人であり、また書くことをやめた詩人であるということだ。この反抗の天才はパリ・コミューヌのなかに、おのれの反抗を読みとって、これを讃美したのである。
(つづく)

(自筆原稿「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」)

ムーズ河
ランボオ河岸にて


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