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海外詩の精神は ”反抗” だよ(上)

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《詩人訪問 第4回》 大島博光さん

海外詩の精神は ”反抗” だよ

                            聞き手・奥田史郎

奥田 大島さんは、アラゴン、エリュアール、ネルーダなどの詩もたくさん翻訳されていますし、これらの詩人たち──ほかにピカソなどもありますけれど──それぞれ彼らの生涯と芸術について紹介した著書もたくさん書いていらっしゃいますね。
大島 いちばん新しいのは、この間出版されたばかりの、パブロ・ネルーダのことを書いたものだね。
奥田 そういう一連の著書のなかで、ランボオの伝記だけは少し異質だと思われるのですが、大島さんはランボオから否定的教訓ではなく "肯定的教訓” をひきだすためにあれを書いたとおっしゃっています。異質のようですが実は、ランボオは大島さんの大学の卒論テーマでもあったし、その当時の早稲田の先生でもある西条八十のライフワーク・テーマでもあったのですね。
大島 そうそう、そうなんだ。
奥田 西条さんは名前は八十でも、実際は八十歳になる二~三年前に亡くなっているんですね(笑い)。たしか七十五歳頃だと思いますが、三十年以上の研究成果と銘打って『アルチュール・ランボオ研究』を発表しています。それを書店で見たとき、その本のあまりに分厚いのと、原文引用がふんだんに入っているので、正真正銘、本格的な研究だなとびっくりした記憶があります。西条八十というと、どうしても「かなりや」の作者のような抒情詩人の面と、あまりにもヒット歌謡曲の作者という印象が強いですからね。英語・フランス語も堪能であったという話ですし、大島さんは大学では直接お習いになったのでしょう?
大島 先生との結びつきは、全部が ″ランボオ″ なんですよ。わたしが卒業論文にランボオを書いて、その論文の主査教授が西条教授だった。それでまあ、わたしのその論文を先生が認めてくれたというか評価してくれたのですね。その縁で、西条先生が主宰していた詩誌『蝋人形』の編集者のポストを与えられたわけです。
奥田 そのお仕事はどのくらいの期間、続けられたのですか。
大島 一九三五(昭和10)年の三月から、戦争末期に廃刊になるまでずっとだから、かれこれ十年近くにはなる計算だね。
奥田 勤務先は、西条さんの自宅ですか。たしか、その頃は新宿・柏木に住んでいられたようですね。それで、西条八十は世間的には「東京行進曲」や「東京音頭」など、それこそたくさんの流行歌の作詞を次々としながら、ずっと早稲田の仏文科の先生も続けていたのですね。戦後もずっと、映画の主題曲だのたくさんの歌謡曲の作詞は続けていますよね。
大島 早稲田の先生は長いことやっていましたよ。それで、レコード会社に重宝がられた作詞の仕事は、西条八十のなんていうかね。自分ではいつも自由主義者だといっていて、歌謡曲をつくるようなそういう側面は ”営業” だというんだね(笑い)。商売として割り切っているというか、そういう点を器用に使い分けているんだ。だから、そこが西条八十という人の不思議なところでね。ああいうことをしながら、ランボオに対する調査・研究は、一年中手を離さなかったし、いわゆる純粋詩、芸術詩も書き続けていたからね。
奥田 フランスの新しい詩人や詩の動向も、若いころからずっと追いかけて研究をつづけていたようですね。
大島 そこがおもしろいところで、ほくが『蝋人形』の編集部に入って、ぼくがあの当時のシュールリアリズム詩の紹介とか、ロートレアモンの紹介とかいろいろやっていても、なんに言わずにやらせてくれた。その点、寛容というか、許容力があるというか・・・・・

 一日おきの、午後からの仕事

奥田 雑誌の編集にかかわるスタッフは、大島さんの他にも何人かいらしたのですか。
大島 いやいや、小さな雑誌だから、ぼく一人で‥…(笑い)。
奥田 それは意外ですね。それで雑誌は毎回、どのくらい発行していたんです?
大島 多いときには、三〇〇〇から四〇〇〇部も出していたでしょぅ。あれで当時は、独立採算制でやっていたんだから。
奥田 採算がうまくとれていたんですか。
大島 とれていたよ。ぼくの給料もちゃんと出して……、どこかの製薬会社から広告料もとっていたしね。それに毎号、原稿料もきちんと払っていましたよ。
奥田 へえー。雑誌が月刊だとすると、結構忙しいですね。何ページぐらいあったかにもよりますけれど……。
大島 あれで、今の『詩学』ぐらいのページ数はあったね。
奥田 ご自身がつくられた年表によりますと、大学を卒業した年に「召集令状を受けたが、結核の為、即日帰郷」とありますが、その頃の結核では、就職もままならないわけでしょう?
大島 だから、この仕事でずいぶん助かったよ。ありがたかったね。
奥田 当時、大島さんはどこに住んでいらしたんですか。
大島 阿佐ヶ谷です。そこから柏木まで行くんだけど、編集の仕事は一日おきに行けばいい。それも、午後からでいいんだ(笑い)。最後は、雑誌がちゃんと出ればいいのだから(笑い)。
奥田 午後からの出社では、前の晩、少しぐらい夜更かししていても平気ですね(笑い)。
大島 それどころじゃないよ。結核で具合悪いというのに、しょっちゅう飲んでは二日酔いになっているんだからね(笑い)。だから、電話だけかけて、「今日も休ませてもらいます」なんてこともあったね(爆笑)。
奥田 西条家の一室が、編集室になっていたのですか。
大島 近くにアパートの一室を借りて、そこを編集室にしていた。それに、西条家のお茶の間はあれで十二畳ぐらいあったかなあ、そこに出入りの弟子たちが集まって、そういうところでやったりしたこともある。
奥田 それでは、大島さんは詩人たちに原稿依頼やインタビュー取材などもなさったわけですね。
大島 高村光太郎とか夏目耿之介などの訪問記事を取りに行ったりもしたよ。福田正夫の所にも行ったなあ。 今でも夢にみて困るくらいだよ、仕事が遅れて間に合わないなんて夢を……(笑い)。
奥田 五十年以上も昔のことなのに、いまだに困った場面を夢に見るなんて、相当まじめに仕事をしてらしたんですね(笑い)。
大島 そんなにまじめじゃないけれど(笑い)、出さなきゃいけないのに、事務が溜まってしまって……。ぼくにもう少しそういう能力があって、あの頃から自分の作品をまとめて詩集を出すようなことをしていれば、外部的にはもう少し有名になっていたかもしれないね(笑い)。
奥田 若いころに詩集を出されなかったというのは、戦争中というきびしい時代のせいもあるでしょう?
大島 まあ、自信がなかったのか……、つまり、″詩人″としての自分を押し出していこうという考えが希薄だったんだね。ぼくの当時のポストを利用すれば、ある程度は売れたわけだよ。それなのに、そういう努力もせずに、飲んだくれて酔っ払ってばかりいたんだからね(笑い)。
奥田 西条さんは何もおっしゃらないのですか。
大島 そういうことをしていても、私生活や生活態度については何もいわれたこともないし、叱られたりしたことなど一度もなかったから、偉いものだよ(笑い)。
奥田 それでも、わぎわぎ引いて下さったというのは、卒論の内容がよほど見所があるということだったのでしょうかね。でも、結局のところ、西条さんの詩風だって、ランボオとは全然似ていないように思いますが……。けれどご本人も、どうしてランボオに惹かれるのか不思議だと言ってはいますね。
大島 それでも西条先生も、ランボオの詩の面白いところを真似て作っていますよ。大きな木が、裸になった若い女を窓からのぞいている(笑い)などというようなところは、とてもうまく利用しているんじゃないかな

  「ランボオはわれわれの仲間だ」とアラゴンは言った

奥田 結局のところランボオは、十代後半の、わずか五年たらずの間しか詩を書いていないのですね。それなのに、これだけ多くの詩人たちに大きな影響を与えているというのはすごいことですね。
大島 日本では、反抗者ランボオ、パリ・コミューヌを支持したランボオ抜きのランボオがまかり通っている (笑い)。どちらかといえば、風変わりな生き方にばかり焦点が合っていて、反抗者としてのランボオにはほとんど触れていないからね。
奥田 テレビで「そして、彼は砂漠に消えた……」という、ウイスキーのCMに登場したときは、ほんとに驚きましたものね。
大島 ぼくも『アラゴン』の中で書いておいたけれど、アラゴンもランボオについて書いているんだ。しかしその文章は、自分が死んでから発表するように、という曰(いわ)く付きのものだった。短いものだけれど、「ランボオの生きた時代はわれわれと時代が違うように見えるけれど、状況は同じだ。ランボオの反抗とわれわれの反抗は同じで、彼はわれわれの仲間だ」ということを言っている。
奥田 精神的には、自分たちの先輩だというわけですね。
大島 そう、精神的には先輩でもあり、仲間であり、兄弟だといっている。つまり、他の人たちは解釈して面白がって眺めているのに、アラゴンたちは″共に生きた”というわけだ。その差は大きいね。そこから、いろいろなランボオ像が出てくるわけだから。
 ぼくも一応、若いころ西条八十の所にいたとしても、歌謡曲など書かずに来たというわけだ。
奥田 魂の純潔を守って、ですか (笑い)。
大島 いやあ、純潔を守るというよりも才能がない……いや、才能がないわけじゃないな(笑い)、そういうものを書こうと思ったことが一度もないんだね。
奥田 『蝋人形』は、必ずしもそういうことを目指して集まったわけでもないんでしょう?
大島 いやあ、そういう目的の人もたくさんいたよ。西条先生が忙しいときには、ぼくなども、先生の原稿をもってコロムビアまで使いにやらされたことも何回かあったよ。ところがぼくは、そういうことが身近にあっても、どうしてもそういう作品は書こうという気がしなかった。

  日本におけるランボオ論

奥田 大島さんは早稲出大学に入られるときから、専攻科目はフランス文学と決めていられたんでしょう? それは、生まれ育った長野のおうちの環境が、そういう影響を与えるようなハイカラなものだったのですか。
大島 いやいや、家にはそんなハイカラなものはなんにもなくて、それは芥川龍之介からだよ。中学校時代に読んだ「河童」などから受けた影響だね。でも、芥川からはせいぜいボードレールどまりだった。その後、次々に他のフランスの詩人の作品も読んでいって、ランボオにたどり着いた。
奥田 その頃のフランス詩の翻訳で普及していたのは、堀口大学あたりですか。ぼくらも中学時代に上田敏訳でカアル・ブッセの「山のあなた」、ロバート・ブラウニングの「春の朝」、ポール・ヴェルレーヌの「ここかしこ/さだめなく/とび散らふ/落葉かな」などというのを副読本で習ったのですが、その中に堀口訳もありました。例のヴェルレーヌの「巷に雨の降るごとく」は誰の訳だったのか、「わが心にも雨ぞ降る」というので覚えました。
 そのあとしばらくして、タイロン・パワー主演のハリウッド映画で原題はなんだか知りませんが(笑い)、『雨ぞ降る』というのがやってきましたから、″ああ、あの訳からとっているな″と思った印象があるんです。ところがどれだけ探しても、今そんなふうに訳したものが見つからない。でも、最初に接した訳文というのは、どうしても印象が強烈ですね。
 少々脱線しましたが(笑い)、そもそも詩人ランボオを初めて世に紹介したのは、ヴェルレーヌだそうですね。まあ、彼と同棲生活をしていた関係からも必然的にそうならざるをえなかったんでしょうが、ヴェルレーヌが紹介したその頃には、ランボオはすでに ”風のように去って”、コマーシャル風にいえば ”彼は砂漠に消えた” (笑い)後だったんですね。
大島 ヴェルレーヌが「呪われた詩人たち」というエッセイに書いたおかげで、ランボオという名前が残ったんだよ。
奥田 ランボオの妹が最初の評伝に、いろいろと資料を出したりしているそうですが、ランボオと妹は年齢的にみても差があり、ランボオの活躍時期にはまだホンの子どもで文学的理解ができるわけがないのに、後に理解者のように発言したり振る舞ったりしていることに、大島さんはとても批判的ですね。
大島 そうそう、そうなんだよ。妹の亭主がインチキな男でね。
奥田 それが世間に広まったとき、新日本新書の『ランボオ』にもそのへんのことははっきり書いていらっしゃいますが、とにかく、大島さんの場合は″卒論のランボオ”が初心ですから、ずいぶん長く研究されているわけですね。
大島 いやあ、とにかくランボオは面白いよ。その生きざまと、それにパリ・コミューヌとのかかわりだね。ところが、だいたいのランボオ伝、ランボオ論では、パリ・コミューヌのところはすっぼりとオミットされている。パリ・コミューヌ抜きではランボオは、ありえないわけだからね。

(続く)
(「詩人会議」1997.3)

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