マヤコフスキーとアラゴン(4)マヤコフスキーの死

ここでは、「マヤコフスキーとアラゴン(4)マヤコフスキーの死」 に関する記事を紹介しています。
 アラゴンは、一九二八年二月五日にマヤコフスキーとめぐり会い、その翌日、おなじクーポールの酒場で、エルザ・トリオレとめぐり会う。その時から、アラゴンはエルザから離れることなく、生涯、エルザへの愛をうたいつづけることになる。
 エルザは、少女時代からすでにマヤコフスキーの友人であり、エルザの姉リーリャ・ブリックはマヤコフスキーの恋びとであった。したがって、アラゴンにとって、マヤコフスキーは義兄ともいえる。
 マヤコフスキーは、一九三○年四月十四日、ピストルでじぶんの心臓をうって自殺した。それから五ヵ月後、ソヴェトを訪問したアラゴンとエルザは、モスクワのゲンドリコフ小路のマヤコフスキーの住家を訪ねている。その家はこんにち、マヤコフスキー博物館となっている。その訪問の模様を、アラゴンはつぎのように書いている。

 ゲンドリコフ通りの 客間のテーブルをかこんで
 わたしたちは いっしょに腰をおろしていた
 まるで いまにも扉口があいて あの大男が
 窓に射す陽のように ばっと現われそうだった

 五ヵ月たてば もうやすやすと彼の死にも慣れてしまう
 彼の声が聞(き)けなくなると すぐに過去形で彼のことを話すのだ
 きみにまつわりつく彼は もう観念であり記億の仕業(しわざ)なのだ
 だが 隣り部屋の 洋服だんすの扉があいていて
 彼のネクタイが 二つ折れに ぶらさがっているのを見ると
 誰でもふと マヤコフスキーがうしろを通るような気がするのだ

 彼はそこで 煙草をふかして トランプ遊びをしている
 彼の詩が どこか 上着のポケットで歌っている
 彼はちょっと伸びをする それをきみは転地旅行と呼んだものだ
 彼のような肩なら 地平も軽(かる)がると 持ちあがる
 彼の詩が船出の支度をするには 海のひろさが必要だ
 耳にひびく脚韻のために 彼には車輪とレールが必要だ
 だが そんなことを言ってみても いまではもうむだなのだ

 彼は言ったものだ 明日(あす)どこかわからないが 出かけるよ
 パリか パミールか それともペルーか ペルシャへ
 彼には 世界は玉突き台だ 頭のなかの赤玉の言葉が
 緑いろの絨毯(じゅうたん)の上をころがって とつぜんキャノンするのだ

 ああ 彼はほんとに行ってしまった そのわけは永遠にわからぬだろう
 そのわけを訊(たず)ねるのは ほんとに彼を愛していた人たちにとって むごかろう
 あんなに何度も 彼は地獄から抜け出てみせると約束した
 それは暗喩だったようだ 少くとも奇妙なことだった
 いまそれを読みかえすと 心はひっくりかえるようだ
 いつか 彼がもどってきたら きみはどうか黙っていてくれ おねがいだ
 ネバ河は もうこの世捨て人を放すまいと その氷のなかに彼を閉じこめている
 彼はもう銅像でしかない 通りの名 広場の名でしかない
 したしげに鳥が飛んできて その腕のうえで羽根をやすめる
 青銅(ブロンズ)の服のなかで ふるえおののくのは もう風だけなのだ
                           (『末完の物語』)

 ここには、マヤコフスキーの死にたいするアラゴンの哀惜の情があふれていると同時に、マヤコフスキーの人間像が端的にうたわれている。マヤコフスキーはじっさいに玉突きが好きだった。

  この世では死ぬことは新しくない
  だが 生きることもむろん新しくない

 というエセーニンの詩にたいして、マヤコフスキーはつぎの詩句を対置した。

  この世では 死ぬことはやさしい
  生活を築く方がずっとむずかしい

 マヤコフスキーは死んだが、かれの偉大な生への肯定のことばは、この人生に残ったのである。
(おわり)

(『詩人会議』1973年10月 特集マヤコーフスキイ)

(注)本稿は未発表の紀行「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」の一つの章となっている。

枯枝
関連記事
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/3481-b208b432
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック