マヤコフスキーとアラゴン(2)

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 アラゴンがフランス共産党に入党したのは、マヤコフスキーと出合った前年の、一九二七年であった。その年、ブルトン、エリュアール、ユニック、ブニュエル、サドゥールなどのシュルレアリストたちも入党したが、ある者は数週間で離党した。しかしアラゴンは、無器用にではあったが、党生活を追求した。シュルレアリスムの詩的手法から新しいレアリスムの詩に移る実作上の苦渋、新しい思想と私的な生活感情との矛盾など、アラゴンは苦悩にみちた自己変革の過程にふみこんだところであった。党生活を忠実につづけることは、かれをシュルレアリストたちから遠のかせ、かれは孤立させることにもなる。混乱と絶望のあまり、一九二八年、すでに一五○○頁に達していた長編小説『無限の防衛』を、かれはマドリッドで焼きはらったのであった。──これが、マヤコフスキーと出合った時のアラゴンの精神状況の、おおまかな素描である。

 マヤコフスキーとの出合いから、アラゴンが受けとった決定的なものは、ブルジョワ社会の虚偽と醜悪を意識するということではなかった。アラゴンにとって、シュルレアリスムはすでに、このブルジョワ社会の虚偽と醜悪にたいする抗議でもあった。マヤコフスキーとの出合いがアラゴンに与えたものは、新しい世界との接触であった。マヤコフスキーの模範はアラゴンをはげまし、「詩における新しい世界の創設に全力をあげて反対する」ひとびとに、アラゴンを立ち向わせることになる。
 一九三三年、マヤコフスキーの詩『声をかぎりに』を、アラゴンはエルザと共訳で、フランス語に訳したが、その序文でこう書いている。
 「マヤコフスキーの場合のように、翻訳というものの役割が、かくもドラマティックだったことはかつてなかった。それはまさに、偉大な社会革命の時代におけるもっとも高い詩的形容に到達し、その天才を革命に奉仕させた人間にかかわっているからである。ソヴェト同盟以外の国ぐにで、共産主義革命にたいして、さぐるような、いぶかしげな眼ざしを食いいるように向けているすべての詩人たちにとって、マヤコフスキーの模範は無類の価値と効力とをもっている。かれらはマヤコフスキーに期待している──資本主義の濃霧をつらぬいて、かれらの理性のうえに、かれら詩人たちのもとに、射しこんでくるあの稲妻を、期待している。そしてかれらは、自分たちの行動の基準ともし、つねにとは言わないまでも、作品の基準ともしようとしている革命的発展をうらぎらない詩人たろうとしているのである。」 
(つづく)

(『詩人会議』1973年10月 特集マヤコーフスキイ)

マヤコフスキー
若き日のマヤコフスキー(1912年)

 
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