グラナダ紀行(6)アントニオ・マチャドの墓

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 アントニオ・マチャドの墓

 わたしたちはグラナダからまた二○時間も超鈍行列車にゆられて、ヴァルセロナに着き、そこで、ピカソ美術館やガウディの「サグラ・ダ・ファミリヤ」の奇妙な尖塔群を見たりした。ここのピカソ美術館には、ピカソの少年時代からごく初期の絵画やデッサンが集めてあって、それらの初期の作品のなかに、すでに後年の大ピカソへと発展・展開してゆく萌芽を見ることができて、感銘深かった。
 それからわたしたちは、地中海の絶妙海崖(コート・ド・メルベイニ)に沿って走り、スペインとフランスの国境を越えてまもない小さな町コリウールに降りた。ここの墓地に眠るアントニオ・マチャドの墓に花束をささげるために。
 コリウールは小さな漁港でもあるが、夏には押しよせる海水浴客で賑わう地中海岸の町である。だが十一月ともなれば季節はずれで、たくさんのホテルや別荘はみんな閉ざしていた。一軒だけ、ホテル・タンプリエというのがひらいていて、もう避寒にきているらしい数組の老夫婦が泊っていた。このホテルの壁という壁は、絵で埋まっている。見るからに 下手くそな画や、しかし楽しい画が、ぎっしりとかけてある。このホテルに泊った画学生や日曜画家が置いていったのにちがいない。「絵がたくさん、たくさんある」といって、ホテルのおやじはそれを自慢していた。食事のとき、下のレストランに坐って、ひょいと前の壁をみると、なんとそこには、ピカソの署名入りの絵や例の鳩のデッサンなど四、五点が飾ってあるではないか。どうやらピカソもこのホテルに泊ったことがあるのかもしれない……。
 翌朝早く、八百屋で、百日草のような菊の花束を買って、墓地へむかった。ひとかかえもある鈴かけの大木のある、だんだら坂の道を少しばかり登ってゆくと、もうそこに墓地があった。海は見えなかったが、やはり海べの墓地にちがいなかった。門をはいると、そのとっつきのところに、マチャドの墓は、幾鉢もの鉢植えの菊の花ばなに飾られて、ずんぐりとした西洋杉の木かげにあった。大きな寝棺大の石を横たえたような墓石には、「スペインの詩人、アントニオ・マチャド/一八七五年七月二六日セヴィリャに生まれ/一九三九年十一月二二日コリウールに没す」と刻まれてあった。くしくも、わたしたちが訪れたその日も十一月二二日で、ちょうど命日にあたっていた。墓石のうえには、人民戦線の旗と思われる、赤・黄・紫の旗が覆いかけてあって、追悼と讃辞(オマージュ)を書いた紙きれが三、四枚、小さな石で押えて、供えられていた。多くはスペイン語で書いてあって、雨風にさらされてインキの色もにじんだりして色褪せていた……。そこに来あわせた七十歳近い老婆が、墓を指さしながら、また身ぶりをまじえて話してくれたところによると、この土の下に、死んだマチャドが葬られたとき、かれのからだは引き裂(デジレ)かれていたとのことだ。四十年むかしには、この老婆もまだ娘の頃で、マチャドの死はひとびとの話題ともなったのにちがい 。──ロルカが銃殺されたとき、いち早く「虐殺はグラナダで行われた」を書いて、ファシストどもの犯罪をあばいたマチャドは、その後フランコ軍の追撃をのがれてピレネーを越え、ここコリウールに辿りついたが、ここで非業の死をとげたのであった……
 マチャドの死から数年後の一九四一年十二月、第二次大戦下のレジスタンスで、「パリの虐殺」の作者ジャン・カッスーは、南仏のトゥールーズで捕えられて、軍事刑務所の独房にぶち込まれた。かれはそこで「独房で作られた三三のソネット」をつくった。その二一番めのソネットは、かれの敬愛するマチャドにささげられている。
 スペインの人たちは国境を越え、ここコリウールの墓地にまで詣でるのである。
(おわり)

(『詩人会議』 1979年4月)

マチャードの墓
マチャドの墓にて

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