マヤコフスキーとアラゴン(1)

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マヤコフスキーとアラゴン
                           大島博光

 誰かが言っているように、アラゴンとエリュアールは、シュルレアリスムのなかで追求した反抗を、党のなかで、さらに哲学的に、思想的に追求し、発展させた、ということができる。しかしながら、アラゴンの場合、シュルレアレスムから社会主義的レアリスムへの移行は、きわめて苦悩にみちた、長い闘いだった。
 シュルレアリスムから社会主義レアリスムへの移行と書いたのは、一九三五年の『社会主義レアリスムのために』以来、アラゴンは資本主義の国においても、社会主義レアリスムを採用することができると、主張しつづけているからである。一九五四年十二月にひらかれた第二回ソヴェト作家大会においても、アラゴンはつぎのように発言しているのである。
 「ここ二十年前、そしてほんのつい最近まで、私たちの国では、社会主義レアリスムを正しい方法と考えていた人たちさえ、何か気がねのようなものから、レアリスムはまぎれもなく進歩的文学の法則だが、しかし、社会主義のないフランスでは、ほんとうの社会主義レアリスムを問題にすることはできないというように考えがちであった。しかし、私自身は、芸術家・作家が、発展しつつある労働者階級のイデオロギーを受けいれ、社会主義の見とおしのうえに立って、自国民、自民族の歴史的、科学的な認識にもとづいたリアリスチックな芸術を創造していくことができさえすれば、社会主義レアリスムは資本主義の国でも可能である、といつも主張してきた。何か国民的気がねといったような訳のわからぬものにとらわれて、これとちがった風に考えることは──つまりは、損失を招くことであり、ヒュマニスムの文学の発展をさまたげることである。」 (『第二回ソヴェト作家大会』四一○頁)

 アラゴンの、このような社会主義レアリスムへの移行と追求にあたって、マヤコフスキーとの出合いは、きわめて象徴的な影響を与えたのであった。
 アラゴンがマヤコフスキーに出合ったのは、一九二八年一月であった。この出合いについて、アラゴンはこう語っている。

 「それはモンパルナスの或るカフェのことだった。ある秋のタ方、わたしはみんなと同じように時間をつぶしていた。カフェは明るく、女たちがさざめき、腰掛のうえには白と黒の小犬が一匹、まるでおもちゃのように座っていた。とつぜん、誰かがわたしの名を呼んで言った。『詩人ウラジミール・マヤコフスキーがあなたを呼んでいます。」そこにはマヤコフスキーがいて、手で合図をしていた。かれはフランス語を話すことができなかったからである。
 この瞬間こそ、わたしの人生をまったく変えてしまうことになった。詩をひとつの武器に変えることのできた詩人、革命の下手にいてはならぬことを知っていた詩人、マヤコフスキーは、世界とわたしとを結びつけるきずなとなった。それは、わたしが自分の手くびにうけとり、こんにちすべての人びとにさし示している鎖の最初の一環であった。このきずなは、わたしをあらたに外部世界へ結びつけている。御用哲学者たちは、この外部世界を否定するようにと、いままでわたしに教えこんできたのである。それ以来、唯物論者としてわれわれが変革しうるこの外部世界のなかに、わたしは醜悪な敵の顔を見いだすだけでなく、数百万の男女の深い眼を見いだすのである。詩人マヤコフスキーは、これらのひとびとにこそ語りかけるべきであり、語りかけうるということを、わたしに率直に教えてくれたのである。これらのひとびとこそが、この世界を変革し、こわれた鎖のぶらさがっている傷ついた拳をこの世界のうえ高くさしあげているからである。」(『社会主義レアリスムのために』)
(つづく)

マヤコフスキー


(『詩人会議』1973年10月 特集マヤコーフスキイ)

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