兄ちゃんのこと──兄よ目覚めよ 共謀罪が又もうごめく

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 兄ちゃんのこと
                         大野英子

 軒先きに吹き寄せられた落ち葉を焼けば、狼火をあげて敵機を誘導する。かまどの焚きつけに捩じった紙屑を使えば証拠隠滅したと言われる時代、昭和一桁 庶民は貧しく慎ましく暮らしていました。
 こんな時代、〈新世紀〉という小さな結社が有りました。詩人竹内てるよさんが主宰する貧しい労働者や、夜学生など十二人の小さい集い、ここに密かに持ち寄られたのが、多くの詩人、文士たちの激しい反戦、厭戦の文書、時代の化け物「治安維持法」を笠に着た特高の探し求めていたものでした。
 全部集ったら処分する大役を引き受けたのは小学校を卒業して働きながら夜学に通っているあまりにも無名の若者でした。人間一人消えても誰も気付きもしない雑役夫は準備が整うまでの長い日時に、頭の悪い末の妹に思いの丈を摺りこみました。
 そして決行。秘密文書を小包にして、山寺の住職をしている父に送りつけた若者は、その日の内に自殺してしまったのです。特高が突き止めて若者の家を酷しく家宅捜査をしたけれど押収するものは何一つ無かったのでした。これで一つの証拠隠滅事件は終わりました。
 書類の処分を託された父親は、一人息子が命をかけた仕事に協力しました。貧しい山寺の有り金全部を前もって息子に渡し、「決行したらすぐ此の金で汽車に乗り山に入れ、死体を人にさらすな」と話し合っていたのです。
 父は竹やぶの隅で反戦文書を焼き払い、灰は土に埋め、その上には荒草を植えました。

 〈今頃息子は草に伏して息絶えしか、木に寄って最後の青葉を見つめているか。〉

 父の心を去来するもの、父は戦後二十年死ぬまで一言も語る事はありませんでした。
 兄に憶いをすり込まれた妹は兄を追い続けました。たどり着いた竹内てるよさんは「治安維持法に消された」と泣くだけでした。異常な涙に何も聞けませんでした。ある高名な方は机に深く顔を伏せたまま、一枚の紙片を渡してくれました。半紙の切れ端に書いた鉛筆の文字 それは兄の遺書でした。

  生まれて来る
  こんな大切な事さえ
  一言の相談も有りませんでした
  死ぬ時も黙って
  一人で死んでゆきます
  やりたい事がたくさん有りますが
  全部止めにします
              大野貞純

 鈍い妹は兄の姿を追い続けました。鈍いからこそ私を選んだのだ。この子が大人になって気付いた頃、時代が変わっているだろう。そしたら治安維持法の恐ろしさを告発して呉れるだろう。兄は一縷の望みを妹に託したのだ。
言う事も書く事もできない時代、私は兄の遺書そのものだったのだ。そして妹は下手な短歌を詠みました。

・容易ならぬものよと父が二日かけ焼きにし
 灰は黙し語らず

 だが灰は語りました。あの大量の文書がどう処分されたのか、治安維持法犠牲者救援会の方々が手繰りよせ解明してくださったのです。「あなたが八十年お兄さんを追い続けた執念よ」……と。
 兄は無名戦士の墓に名を刻まれました。兄よ、安らかに眠り給え、妹は白菊を捧げました。
 けれど、けれどもです。兄ちゃんよ、安らかに眠ってなどいられません。

 逝きて八十年 兄よ目覚めよ 共謀罪が又もうごめく

(注)
・大野英子さんは著書「九〇歳のつぶやき」(駒草出版、2012年)で兄・貞純さんが治安維持法の犠牲になったことを告発しています。
・英子さんの努力が実って、大野貞純さんは今年3月に無名戦士の墓に合葬されました。

大野英子


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