「ジャンヌ・マリーの手」

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「ジャンヌ・マリーの手」

1)
 五月二十四日、二十五日、二十六日……燃えつづけるパリの街なかを、ヴェルサイユ軍はコミョーヌ戦士を西から東へと追いつめ、東部の労働者街ベルヴィル地区にまで進出する。
 「街はずれではまだ戦闘がおこなわれているのに、同じ街の征服された部分では、もう略奪放蕩が始まっていた。……武器をもったり、制服を着たり、……兵隊靴をはいていた者は、災いなるかな。挙動不審な者は、災いなるかな。敵のスパイや私服に密告された者は、災いなるかな」(リサガレ)
 つまり手当り次第にひっとらえられて銃殺されたのである。
 五月二十七日には、コミューヌ側の拠点は、東部シャロンヌ地区のペール・ラシェーズ墓地だけとなった。二〇〇名の連盟兵がそこを死守していた。墓地の門扉が砲弾で吹きとばされると、ヴェルサイユ軍がなだれこんだ。こうしてどしゃ降り雨のなかに、うすら明りのなかで、白兵戦が始まった。詩人シャルル・ノディエやバルザックの墓のまわりで、銃剣やサーベルによる凄惨な死闘がくりひろげられた。その夜、二〇〇名のうち一五七名の連盟兵が、墓地の北 東の隅の壁に追いつめられて、裁判ぬきで銃殺された。四三名はすでに殺されていたのである。──この壁は「連盟兵の壁」とよばれ、こんにちなおコミューヌ戦士をしのぶ巡礼の地となっている。
 五月二十八日、陽がのぼったとき、第十一区と第二〇区(メニルモンタン地区)には孤立したバリケードがいくつか、わずかの連盟兵によって守られているにすぎなかった。
 ベルヴィル地区に通ずる第十一区のフォンテーヌ・オ・ロワ街のバリケードで、詩人バティスト・クレマンは二十歳(はたち)ぐらいの若い娘に出会った。彼女は籠を手にしていた。彼女は野戦病院付の看護婦で、その近くのサン・モール街のバリケードが陥ちたので、こちらの方に何か役立つことはないかとやってきたのだった。クレマンは書いている。
 「われわれは、彼女を敵から守れるかどうかわからないと言って拒(ことわ)ったにもかかわらず、彼女は頑としてわれわれのそばから離れようとはしなかった。われわれが知ったのは、ただ彼女がルイズという名前で、婦人労働者だということだけであった。」
 後年──一八八五年、クレマンは『シャンソン集』刊行に際して、かれのもっとも有名な歌「さくらんぼの実る頃」をこの英雄的な娘ルイズに献じている。
(つづく)

(新日本新書『ランボオ』)

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