7)『グレヴァン博物館』と状況の詩

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(『グレヴァン博物館』と状況の詩)

 『グレヴァン博物館』は、ヒトラー、ムッソリーニ、ペタンらの、怖るべき醜怪な姿を、ロボット人形の影像で痛烈に風刺している。この人形どもの行先は、もはや歴史の博物館──グレヴァン博物館こそがふさわしい。
 この詩集の序文『黒い魚──あるいは詩の現実について』のなかで、「状況の詩」にふれてアラゴンは書いている。

 「わたしはいま『グレヴァン博物館』を読みかえしてみた。そうして

  ひとつの歌を わたしはつくった 死ぬばかりの悲しみで
  どうして どのようにして つくったかわからない
  なぜなら よるもひるも タぐれも朝がたも
  わたしは 自分の心も想いも 抑えられぬのだから

 とうたったペイル・ヴィダールのように、わたしもまた、じぶんの詩について語りたくなるのだ……
 ……わたしは、自分がつくったほかのどの詩にもまして、この『グレヴァン博物館』が、どうして、どのようにして書かれたか、語ることができない。その秘密は、わたしの秘密ではなく、あまりにも長くしかも過ぎさりやすい一時期、フランスの心臓が狂おしく高鳴っていた一時期の秘密なのである。それは一九四三年、せいかくに言えば一九四三年の夏である。四二年には、あるいは四四年にも、これらの詩句の一行も書かれ得なかっただろう。四二年には、あるいは四四年にも、この詩の表現は承認されがたく、不当なものだったろう。四二年の打撃はまだ充分ではなかったし、四四年には希望はちがった形をとっていた。そうだ、『グレヴァン博物館』は状況の詩である。そして未来の歴史家たちが、この詩にすこしばかり心をとめたとしても、あの(ヴァレリイの)『海べの墓地』や『蛇』がいつか彼らに与えるだろうあの困惑、あのとまどいを、この詩についてはもたぬだろう。『海べの墓』や『蛇』は、ひとのいうところによれば、永遠のひとかけらだということだ。その失われた日付けは、多くの議論の後にも、見つけだすことはむづかしかろう。……多くの若者たちがパルチザンにくわわった、あの一九四三年の夏に、叙事詩的感情がよみがえるのである。その根は、数年来の土壌にねざしている。というのは、四二年には、ポリッツエル、ドクール、ソモロン、デュダック、フェルドマンたちが仆れ、四一年には不滅のペリイとシャトーブリアンの二七人が死んでいた。そして四○年、三九年には、あの虚偽不正をゆるさぬひとびとの英雄的な生活があり、三六年来のスペイン戦争があった……まさに、この流された血、これらの犠牲者たちから、フランスの歌はわきあがらずにはいなかったのだ」

 ここでアラゴンはまず、『グレヴァン博物館』の書かれた歴史的状況を述べ、状況の詩──叙事詩──フランスの歌、民族の歌がわきあがらないではいない歴史的条件を指摘している。それはほかならぬナチスの侵略とそのやばんな圧制によるフランスの危機、その危機に際してフランス人民の民族意識・民族感情がよみがえったことである。この民族意識のよみがえりは、一九三六年、フランス労働者階級における民族意識復活の序曲をなしたスペイン戦争以来、準備されてきたものだった。この民族感情は、フランス人民のなかに、叙事詩的感情となってみなぎり、叙事詩となって湧きあがらずにはいなかったのである。そうして叙事詩こそ、民族の詩の主要な側面となった。民族的な共同の感情があり、共同の行動があり、共同の闘いがあり、そうして新しい「武勲」があるとき、それは叙事詩として歌われずにはいないからである。

 アラゴンはさらに書いている。
 「叙事詩の本質は、叙事詩の長さにあるのではなくて、叙事詩的感情のはげしさにある。それは、たとえばつぎのような詩句に要約される。「おお 見ろ オーヴェルニュよ 敵がやって来たぞ!」おなじく、ユゴーのみじかい詩の、つぎのような結びの詩句「おーい友よ とギリシャの子供が言った 青い眼の子供が言った──おれは爆薬がほしい 弾丸がほしいんだ」これらの詩句は、あらゆる冷笑にもかかわらず、圧制の思い出がこの地上からぬぐいさられぬかぎり、壮重なものとして残るだろう。たとえ、フランスの生活状況が、叙事詩的であることをやめたときにも……」
 「詩を叙事詩たらしめるものは、状況である。ということは、明らかに、叙事詩はつねに状況の詩であることを意味する、このことは、恐らく、最初の原型では意味していないことだが、奇妙なことを強調することになっている。つまり、叙事詩は、こんにちの通用語では、詩の「高貴な」一形式とされているが、それなのに、「状況の詩」ということばは、下等なジャンルの詩にたいする言い分として、ある種の侮蔑をもって用いる表現なのである…… 叙事詩的感情とは、民族感情の詩における名まえ以外のものではない……」

 アラゴンは、このように状況の詩、叙事詩を擁護しながら、ふたたび、ヴァレリイ風な「永遠の詩」や「詩的な神秘」の愛好者たちに批判を向けている。「永遠のひとかけら」と言われるヴァレリイの純粋詩、あの「いやはてのダイヤモンド」や、あるいは「リルケ風」は、現実の状況を侮蔑する。だが、これらの架空のオペラは、「子供が死のうとしている時には、黙りこんでしまう」のだ。
(つづく)
(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

池

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