地下生活と『グレヴァン博物館』4)サン・ドナの村へ

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4)サン・ドナの村へ

 ところで、このリヨンのモンシャの隠れ家も安全ではなくなったので、一九四三年七月には、ドローム県の寒村サン・ドナに移る。その頃の一枚の写真をみると、ちょうど日本の農村の、壁のはげ落ちた土蔵のような家から、アラゴンが降りてくる。下には、村の子供がなかば裸かで立っているところが写されていて、地下生活のきびしさが思いやられるのである。サン・ドナの思い出をエルザはこう書いている。
 「わたしたちにとっても、活動にとっても、リヨンはいたずらに危険の多いことが分った。そこで、必要な外出のできる静かな場所に、わたしたちはかくまわれることになった。こんどは信用できる偽証明書をもって、わたしたちはドローム県のサン・ドナへ向った。むろんそこでは「北部地帯」からの多くの避難者のように、おとなしく、仕事のない閑人らしく装って暮らさねばならなかった。よく組織された非合法活動のきびしさが、すべてについてまわった。
 わたしたちは、「解放」の日までそこにとどまった。ヴァランスやリヨンやパリへしげしげと旅行をしながら。(リヨンのブロンに、わたしたちはついに月ぎめの部屋を借りることにした)村のひとたちは、ひんぴんと行ったり来たりするわたしたちをよく見ていたが、見て見ぬふりをしていた。まもなくわたしたちは、村びとのなかに、口の堅い協力者を見つけだした。その人たちは、口には出さなかったが、この地域に避難していたパリっ子たちをとおして、わたしたちが何者なのか知っていた。またある村びとたちはわたしたちの素性を知らぬながらも、「感づいて」いたし、ほかの村びとたちは、わたしたちを何かうさんくさいと思っていた。わたしたちは、サン・ドナにとどまることに決めた。結局、運は天にまかせるよりほかなかった。私たちにとって、安全であるような場所はどこにもなかったのである」
(『交錯小説集第五卷序文』)

 ラヴァル、ペタン、アウシュヴィッツなどの名まえを公然と挙げているような詩は、一九四三年〜四四年頃に合法的に発表することはとてもできなかった。アラゴンの詩にとって、いつそうきびしい非合法の時代がやってくる。こうして非合法出版が始められる。
 その頃、知識人の抵抗組織は大きくなっていた。知識人は五人で一つの地下細胞をつくり、それは「星」と名づけられ、非合法活動の規律にしたがって、他の地下細胞とは厳格に区切られていた。この組織を通じて「星」と題するタイプ刷りの小冊子がひろめられることになる。五人組から、この小冊子をうけとった読者は、この小冊子を四枚のカーボン紙で複写して、新しい五部を流布する。こうして「雪だるま」の方法でつづけてゆくのである。
 アラゴンの仲間はまた「フランス書房」Bibliothèque Française の名義で地下出版を始める。この出版所名で最初に出版されたのが『グレヴァン博物館』であった。この詩は、「怒れるフランス人」という名前で出版され、まもなくパリの「深夜厳書」によって再版される。
 この詩は、リヨンで書き始められて、サン・ドナの村で書きあげられた。

  われらの黙示録が始まって 四度めの夏
  ふしぎな うすら明りが地平線に現われた

  いまや 暗い日蝕も 終りに近づいたのか
  あかるい希望が 牛獄の藁のなかにも脈うつ

 という詩句で、この五五六行の大きな詩は始まっている。ナチスの侵略がはじまって、すでに四年めの夏を迎えていた。この年の二月二日、ドイツ軍九万がスターリングラードで降服し、ナチス・ドイツの敗北は早くも避けられぬものと見られていた。しかし、フランスを占領していたドイツ軍は、いよいよファシストとしての野蛮な虐殺、略奪、弾圧をふるっていた。この詩は、その血なまぐさい状況のなかで、その血なまぐさい状況そのものを書いた叙事詩(エピック)であり、ファシストたちにたいする痛烈な調刺詩である。
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

地下抵抗の時代のアラゴン 1944年

地下抵抗の時代のアラゴン 1944年

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