マチスの壁 大島博光
わたしが「マチスの壁」と名づけた壁がある
毎朝わたしの散歩する団地の道ばたにベンチがあって
わたしはそこに腰をおろして息を入れる
眼の前に道をへだててもう一棟の壁がそそり立っている
その壁の前に手頃に高いトチの木が立っている
光はうしろから射しているから そのトチの木の大きな葉っぱの影がちょうどその壁のうえに落ちる
その揺れる葉むれの影のおもしろさが わたしにマチスを思い出させる
あのマチスの観葉植物の大きな葉っぱを描いた画面やデッサンを思い出させる
そこでわたしはこの壁を「マチスの壁」と呼ぶことにした
この壁の上のトチの葉むれの影絵は そのときどきの太陽の位置によって、また天候によって変わる
晴れた日には葉っぱの影はくっきりと映り
うすぐもりの日には墨絵のぼかしのようにビロードのように柔らかく映る
しかも二倍も三倍も大きくデフォルメして映る
もっと曇った日には葉っぱの影は映らない
ほのかな影らしいものがただようだけだ
何も映っていない壁は俳優の登場しない舞台のようにうつろでさびしい
風の強いときにはトチの葉たちの影は激しく揺れ動いて叫び狂っている
さらに夕ぐれ 太陽は向こうに落ちかかって逆光となる
それでも葉っぱの影は輪郭こそないが藍を淡く淡く溶かした色に壁を染める
光の演じるトチの葉むれの影絵の千変万化は 画家ならぬわたしの眼にも驚くばかり微妙繊細である
わたしはまるで印象派から野獣派にいたる光線の発見から色彩のかたまりの発見にいたる過程にいあわせているような想いにとらわれる……
一九九一年五月
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