大島博光年譜(1910年―1935年)
1910年(明治43年)
11月18日、長野県更級郡西寺尾村(現在の長野市松代町西寺尾)954番地に生まれる。父確光、母きよ(きゃう・小杏)の長男。生家は農業、養蚕を営む自作小地主。
1922年(大正11年)12歳
県立屋代中学校(現在の長野県屋代高校)に一期生として入学。
1924年(大正13年)14歳
春、母きよ死去(享年39歳)。強いショックを受け、メタフィジックとペシミズムの傾向を抱くようになる。「(13歳の)そんな小さな胸でだよ、人は何ぞやとかね、生きているのは、とかさ、そういう疑問が出て来るのだよ。それがやはり言葉は知らなくても、それがメタフィジックスなのだよ。つまり唯物論も何も知らず、観念論も知らないけれども、それはメタフィジックスにそういうことを、提起をして疑問に思っているわけだよ。それで一種のペシミズムになって、それから世をはかなんで、それで小説を読み漁るというわけだ。」(稲木信夫「インタビュー 大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」1999年)「詩は悲しみからはじまった。13歳の時にママンが死んでからだ。」(尾池和子『大島博光語録Ⅰ』)
9月末日、中学の作文ノートに詩「夏の夕」を書く。
燃え下りる強烈な陽光
黒赤い光線
お丶この恐ろしいものに
焼きに焼かれる總て
併し衰はくる
夕はくる
日は落ちる
判然と
燃かれる總ては
透明な夕空──夕焼を含んだ赤い空の下に
影をうすて(ママ)ゐる
夕風はそよぐ
向ふ屋敷の向ふに
そっと並んで聳へてゐるポプラに
そして梢のをちこちに
淡い光が見える
星も懶く瞬き始める
小守唄も幽かに
夕風を流れて聞えてくる
10月、作文「母 暑中休暇中で一番印象の深かった事」を書く。
「夏休中は自分の家で一番多忙な時だ。/養蚕で自分は毎日父と桑を採りに行った。畠で何日も父は自分に、今年の春逝った母の事から、勇気を付けて下さるやうに色々とさとして下さった。自分は何日も涙で有難く受けた。そして追憶に沈むのであった。/ある時などはこんな夢を見た。/母が盛装をして、突然帰ってきた。病が全治したので退院したのだと。にこにこして言ふのではないか。自分は天に上ったやうな心持で見た。ふと目が醒めた。相変らず、自分は床の中に居るのだった。自分は悄然として、起きる元気もなく、自分の不幸を亦々考へ込んだ。そして、限りなく自分を悲しく憐に思った。/こんな事で一寸の事でも母の事を思い浮べる。そして、陰気な心持になる。/おヽこの夏休!!悲しく過ごせし休!!/自分は如何にしてこの印象深き休暇を忘れ得よう。母の逝きし日と同じく。」
1928年(昭和3年)18歳
3月、屋代中学校卒業。この頃、芥川龍之介、ドストエフスキー、トルストイ、アナトール・フランスなどを耽読。フランス映画「レ・ミゼラブル」を長野市の映画館で観て深い感銘を受ける。10月上京。文京区春日町に下宿、駿河台予備校に通う。この頃ニコライ堂下の神田図書館でロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を耽読する。
1929年(昭和4年)19歳
4月、早稲田大学第二高等学院に入学。
「わたしが早稲田第二高等学院仏文科に入学したのは1929年(昭和4年)の春だった。/それは嵐を前ぶれする稲妻がひらめくと同時に、一瞬陽光がまぶしく射すような時代だった。世界恐慌が始まっていた…しかしその当時、わたしはそんなことに気がつかなかった。/その頃、わたしは小石川区第六天町に下宿していた。切支丹坂を登って、関口台町の灰色の表通りを歩き、坂をくだって江戸橋に降り、江戸川公園の樹木の下を歩いて、学校へ通った。公園のわきの小川にはまだ水車が残っていた。/公園のなかで写生をしていた若い女の画家と、知ったかぶりをして、ヴァンドンゲンの話をしたことを覚えている。その頃、ヴァンドンゲンの嵐の絵などに感動していたせいかも知れない。」(「ワセダの思い出」 掲載誌不詳)
この頃、ロシア革命、社会主義の存在を知り、ルナチャルスキーの『革命と文学』やエンゲルス『空想より科学へ』、『共産党宣言』を読む。
「その頃、第二高等学院は、道路をへだてて、安部球場の南側に建っていた。学院の正門の前に、二階建てのクラブ・ハウスがあって、その二階に「新興文学研究会」という表札をかかげた部屋があった。ロマンティクな新しい文学を夢みていたわたしは、そういう文学の研究会だと思って、そこに入ることにした。入ってみると、そこでは、ルナチャルスキーの『革命と文学』とか、エンゲルスの『空想より科学へ』といった本がテクストに使われていて、わたしはびっくりした。田舎の文学青年だったわたしは、革命という言葉もその意味も知らなかったのである…」(同前)
1930年(昭和5年)20歳
6月、落合のゴム工場にビラ配りに行き帰途つかまり、高田馬場警察に29日間留置された。9月、学校より退学処分の通告があったが以後運動をしないという一札を入れて学校に留まる。「そのときは、学校へ、ブタ箱にぶち込まれて、今で言えば民青同盟の下っ端ぐらいにいて、もうどこにもまだ登録されていないから、ブタ箱へぶち込まれても僕は上へ行かないで済んだわけだよ。」(稲木信夫前掲文)
9月9日、松本城を友人らと訪れ写真の裏に次のことを書く。
「封建主義ノ化石ノナカデ、オレハ歴史ニツイテ感傷デアッタラウカ。ソコデ、タンナル、エトランヂェトシテ 封建主義ノ建築ヲ視覚シテキタニ過ギナイダロウカ。/白晝ノ不眠症ニ、オレハ、恐迫サレテイル。オレハ毛髪ノ陰ニ逃避スル、憂鬱ナ黄色ヲ把握スル。」
12月、田村泰次郎を中心とした雑誌「東京派」創刊号に「アキレス」(短編)、「マックス・ジャコブ抄」を発表。他の同人には秋田滋、河田誠一、滝口俊吉(滝口修造の甥)等がおり、後の号には春山行夫、安西冬衛、神西清、宗瑛(歌人片山廣子の娘片山聡子の筆名)等も寄稿している。「当時パリやニューヨークで新しい実験的文学を推進しているグループがあり、前衛雑誌をだしていたが、それに呼応する意気込みで、東京グループという意味で「東京派」を名乗った。」(田村泰次郎『わが文壇青春期』)
1931年(昭和6年)21歳
1月、「肥厚性鼻炎」(短編)、ルイ・アラゴン「巴里の農夫」(抄)を「東京派」第2号に発表。4月、早稲田大学文学部フランス文学科に進学。同級生に秋田滋、田村泰次郎、一級下に楠田一郎、村上菊一郎等がいた。フランス文学科の教授陣は吉江喬松、西條八十、山内義雄(助教授)、英文科の教授には日夏耿之介がいた。
「1931年の春、わたしが学院から文学部へ進んだ時、高田牧舎の前の門から入って、芝生の広場をへだてて、四階建てのショウシャな文学部の新館が完成した。屋根には、校歌にうたわれている「イラカ」を配していた。(いまは文学部ではないらしい。)そして道路ぎわの杉木立のかげには、坪内逍遥や片上伸などの伝説にみちた、緑色の木造の二階建ての古い校舎が建っていたが、それはまもなくとり拂われた。/その頃、吉江喬松先生のフランス文学史や文学概論の講義が評判で、大きな教室がいつもいっぱいだった。それから西條八十教授の、校門近くの喫茶店での講義は、その後やはり伝説ともなった。」(「ワセダの思い出」)
同月「遂げず」(短編)、ルネ・クルヴェル「死と疾患と文学と」、サルヴァドル・ダリ「腐敗した驢馬」、ジャック・プレヴェール「一つの整理 或ひは海馬の歴史」、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール「人間」を「東京派」第3号「若き仏蘭西文学号」に、ステファン・プリアセル「露西亜演劇の生命」(田村泰次郎との共訳)を「新文学研究」第2号に発表。6月、ピエール・オーダル「ロオトレアモン 虚無の犠牲」を「東京派」第4号「ロオトレアモン特輯」に発表。8月、「ヴァリエテ―或ひはUn Vagabond―」(短編)、ハッベル「スタインへの書簡」を「東京派」第5号「特輯アメリカ文学」に発表。
1933年(昭和8年)23歳
9月、西條八十主宰詩誌「蝋人形」に「アルチウル・ランボオ伝」の連載を始める。(昭和9年6月まで計9回)
1934年(昭和9年)24歳
3月、早稲田大学文学部フランス文学科を卒業。卒業論文は「アルチュル・ランボオ論」。主査西條八十、副査吉江喬松。「西條八十先生がね、そのとき早稲田の仏文の先生で、僕の卒業論文の審査をしてくれて、そして私の卒論を評価してもらって。私がランボオをやって先生もランボオ専門家だから、そういう関係で。」(稲木信夫前掲文)「(西條)先生はランボオを研究していてね、僕がランボオを卒論にしたら吉江先生がほめてくれたんだよ。西條先生の先生が吉江孤雁先生だからね。それで西條先生も評価してくれたわけだ。」(尾池和子前掲文)
4月、「ランボウの精神的発展」(研究論文)を「仏蘭西文芸」(吉江喬松の門下生を中心とした学術誌)に発表。(5月、6月にわたり連載。)7月、「現代の古典的性格への一瞥」を「仏蘭西文芸」に発表。9月、カルロ・シュアレス「Autarchie」(エッセイ)を「仏蘭西文芸」に発表。11月、召集令状を受けたが、結核の為即日帰郷。この頃中野区江古田に住む。
1935年(昭和10年)25歳
1月、アラゴン「Imaginationの対話」を「JANGLE」(アルクイユのクラブ 北園克衛編集)第1号に発表。3月、西條八十のすすめで「蝋人形」の編集に携わる。編集室は柏木町にあった西條邸の茶の間。同月「革命的神秘家ロオトレアモン」を「蝋人形」に発表。(4月まで)6月、「スウルレアリズムの精神」(評論)を「蝋人形」に発表。7月、「ヴァシエの手紙 1918・8・17」(翻訳)を「VOU」(北園克衛主宰)第1号に発表。8月、「壁―星に」、「敗北」(詩)を「蝋人形」に、「スウルレアリストの抗議」(翻訳)を「文芸汎論」(城左門・岩佐東一郎 1931年創刊)に発表。12月、「自殺せる詩人たち ネルヴァル リガオ クルヴエル」(エッセイ)を「蝋人形」に発表。この頃杉並区馬橋(現在の杉並区阿佐ヶ谷)に住む。
(重田暁輝編集・大島朋光監修)
参考文献
『大島博光全詩集』 青磁社 1986年
『西條八十全集 18巻 別巻 著作目録・年譜』 国書刊行会 2014年
田村泰次郎『わが文壇青春期』 1962年 新潮社
紅野敏郎「逍遥・文学誌7・8「東京派」田村泰次郎・大島博光・河田誠一ら」 上・下 「国文学 解釈と教材の研究」 1992年1月・2月
腰原哲朗「大島博光の青春時代―田村泰次郎との交友」 「狼煙」 2014年9月
稲木信夫 「インタビュー 大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」 『詩人中野鈴子を追う 稲木信夫評論集』 コールサック社 2014年
尾池和子 『大島博光語録 Ⅰ・Ⅱ』(私家版) 2007年
(『狼煙』81号 2016年11月)
1910年(明治43年)
11月18日、長野県更級郡西寺尾村(現在の長野市松代町西寺尾)954番地に生まれる。父確光、母きよ(きゃう・小杏)の長男。生家は農業、養蚕を営む自作小地主。
1922年(大正11年)12歳
県立屋代中学校(現在の長野県屋代高校)に一期生として入学。
1924年(大正13年)14歳
春、母きよ死去(享年39歳)。強いショックを受け、メタフィジックとペシミズムの傾向を抱くようになる。「(13歳の)そんな小さな胸でだよ、人は何ぞやとかね、生きているのは、とかさ、そういう疑問が出て来るのだよ。それがやはり言葉は知らなくても、それがメタフィジックスなのだよ。つまり唯物論も何も知らず、観念論も知らないけれども、それはメタフィジックスにそういうことを、提起をして疑問に思っているわけだよ。それで一種のペシミズムになって、それから世をはかなんで、それで小説を読み漁るというわけだ。」(稲木信夫「インタビュー 大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」1999年)「詩は悲しみからはじまった。13歳の時にママンが死んでからだ。」(尾池和子『大島博光語録Ⅰ』)
9月末日、中学の作文ノートに詩「夏の夕」を書く。
燃え下りる強烈な陽光
黒赤い光線
お丶この恐ろしいものに
焼きに焼かれる總て
併し衰はくる
夕はくる
日は落ちる
判然と
燃かれる總ては
透明な夕空──夕焼を含んだ赤い空の下に
影をうすて(ママ)ゐる
夕風はそよぐ
向ふ屋敷の向ふに
そっと並んで聳へてゐるポプラに
そして梢のをちこちに
淡い光が見える
星も懶く瞬き始める
小守唄も幽かに
夕風を流れて聞えてくる
10月、作文「母 暑中休暇中で一番印象の深かった事」を書く。
「夏休中は自分の家で一番多忙な時だ。/養蚕で自分は毎日父と桑を採りに行った。畠で何日も父は自分に、今年の春逝った母の事から、勇気を付けて下さるやうに色々とさとして下さった。自分は何日も涙で有難く受けた。そして追憶に沈むのであった。/ある時などはこんな夢を見た。/母が盛装をして、突然帰ってきた。病が全治したので退院したのだと。にこにこして言ふのではないか。自分は天に上ったやうな心持で見た。ふと目が醒めた。相変らず、自分は床の中に居るのだった。自分は悄然として、起きる元気もなく、自分の不幸を亦々考へ込んだ。そして、限りなく自分を悲しく憐に思った。/こんな事で一寸の事でも母の事を思い浮べる。そして、陰気な心持になる。/おヽこの夏休!!悲しく過ごせし休!!/自分は如何にしてこの印象深き休暇を忘れ得よう。母の逝きし日と同じく。」
1928年(昭和3年)18歳
3月、屋代中学校卒業。この頃、芥川龍之介、ドストエフスキー、トルストイ、アナトール・フランスなどを耽読。フランス映画「レ・ミゼラブル」を長野市の映画館で観て深い感銘を受ける。10月上京。文京区春日町に下宿、駿河台予備校に通う。この頃ニコライ堂下の神田図書館でロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を耽読する。
1929年(昭和4年)19歳
4月、早稲田大学第二高等学院に入学。
「わたしが早稲田第二高等学院仏文科に入学したのは1929年(昭和4年)の春だった。/それは嵐を前ぶれする稲妻がひらめくと同時に、一瞬陽光がまぶしく射すような時代だった。世界恐慌が始まっていた…しかしその当時、わたしはそんなことに気がつかなかった。/その頃、わたしは小石川区第六天町に下宿していた。切支丹坂を登って、関口台町の灰色の表通りを歩き、坂をくだって江戸橋に降り、江戸川公園の樹木の下を歩いて、学校へ通った。公園のわきの小川にはまだ水車が残っていた。/公園のなかで写生をしていた若い女の画家と、知ったかぶりをして、ヴァンドンゲンの話をしたことを覚えている。その頃、ヴァンドンゲンの嵐の絵などに感動していたせいかも知れない。」(「ワセダの思い出」 掲載誌不詳)
この頃、ロシア革命、社会主義の存在を知り、ルナチャルスキーの『革命と文学』やエンゲルス『空想より科学へ』、『共産党宣言』を読む。
「その頃、第二高等学院は、道路をへだてて、安部球場の南側に建っていた。学院の正門の前に、二階建てのクラブ・ハウスがあって、その二階に「新興文学研究会」という表札をかかげた部屋があった。ロマンティクな新しい文学を夢みていたわたしは、そういう文学の研究会だと思って、そこに入ることにした。入ってみると、そこでは、ルナチャルスキーの『革命と文学』とか、エンゲルスの『空想より科学へ』といった本がテクストに使われていて、わたしはびっくりした。田舎の文学青年だったわたしは、革命という言葉もその意味も知らなかったのである…」(同前)
1930年(昭和5年)20歳
6月、落合のゴム工場にビラ配りに行き帰途つかまり、高田馬場警察に29日間留置された。9月、学校より退学処分の通告があったが以後運動をしないという一札を入れて学校に留まる。「そのときは、学校へ、ブタ箱にぶち込まれて、今で言えば民青同盟の下っ端ぐらいにいて、もうどこにもまだ登録されていないから、ブタ箱へぶち込まれても僕は上へ行かないで済んだわけだよ。」(稲木信夫前掲文)
9月9日、松本城を友人らと訪れ写真の裏に次のことを書く。
「封建主義ノ化石ノナカデ、オレハ歴史ニツイテ感傷デアッタラウカ。ソコデ、タンナル、エトランヂェトシテ 封建主義ノ建築ヲ視覚シテキタニ過ギナイダロウカ。/白晝ノ不眠症ニ、オレハ、恐迫サレテイル。オレハ毛髪ノ陰ニ逃避スル、憂鬱ナ黄色ヲ把握スル。」
12月、田村泰次郎を中心とした雑誌「東京派」創刊号に「アキレス」(短編)、「マックス・ジャコブ抄」を発表。他の同人には秋田滋、河田誠一、滝口俊吉(滝口修造の甥)等がおり、後の号には春山行夫、安西冬衛、神西清、宗瑛(歌人片山廣子の娘片山聡子の筆名)等も寄稿している。「当時パリやニューヨークで新しい実験的文学を推進しているグループがあり、前衛雑誌をだしていたが、それに呼応する意気込みで、東京グループという意味で「東京派」を名乗った。」(田村泰次郎『わが文壇青春期』)
1931年(昭和6年)21歳
1月、「肥厚性鼻炎」(短編)、ルイ・アラゴン「巴里の農夫」(抄)を「東京派」第2号に発表。4月、早稲田大学文学部フランス文学科に進学。同級生に秋田滋、田村泰次郎、一級下に楠田一郎、村上菊一郎等がいた。フランス文学科の教授陣は吉江喬松、西條八十、山内義雄(助教授)、英文科の教授には日夏耿之介がいた。
「1931年の春、わたしが学院から文学部へ進んだ時、高田牧舎の前の門から入って、芝生の広場をへだてて、四階建てのショウシャな文学部の新館が完成した。屋根には、校歌にうたわれている「イラカ」を配していた。(いまは文学部ではないらしい。)そして道路ぎわの杉木立のかげには、坪内逍遥や片上伸などの伝説にみちた、緑色の木造の二階建ての古い校舎が建っていたが、それはまもなくとり拂われた。/その頃、吉江喬松先生のフランス文学史や文学概論の講義が評判で、大きな教室がいつもいっぱいだった。それから西條八十教授の、校門近くの喫茶店での講義は、その後やはり伝説ともなった。」(「ワセダの思い出」)
同月「遂げず」(短編)、ルネ・クルヴェル「死と疾患と文学と」、サルヴァドル・ダリ「腐敗した驢馬」、ジャック・プレヴェール「一つの整理 或ひは海馬の歴史」、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール「人間」を「東京派」第3号「若き仏蘭西文学号」に、ステファン・プリアセル「露西亜演劇の生命」(田村泰次郎との共訳)を「新文学研究」第2号に発表。6月、ピエール・オーダル「ロオトレアモン 虚無の犠牲」を「東京派」第4号「ロオトレアモン特輯」に発表。8月、「ヴァリエテ―或ひはUn Vagabond―」(短編)、ハッベル「スタインへの書簡」を「東京派」第5号「特輯アメリカ文学」に発表。
1933年(昭和8年)23歳
9月、西條八十主宰詩誌「蝋人形」に「アルチウル・ランボオ伝」の連載を始める。(昭和9年6月まで計9回)
1934年(昭和9年)24歳
3月、早稲田大学文学部フランス文学科を卒業。卒業論文は「アルチュル・ランボオ論」。主査西條八十、副査吉江喬松。「西條八十先生がね、そのとき早稲田の仏文の先生で、僕の卒業論文の審査をしてくれて、そして私の卒論を評価してもらって。私がランボオをやって先生もランボオ専門家だから、そういう関係で。」(稲木信夫前掲文)「(西條)先生はランボオを研究していてね、僕がランボオを卒論にしたら吉江先生がほめてくれたんだよ。西條先生の先生が吉江孤雁先生だからね。それで西條先生も評価してくれたわけだ。」(尾池和子前掲文)
4月、「ランボウの精神的発展」(研究論文)を「仏蘭西文芸」(吉江喬松の門下生を中心とした学術誌)に発表。(5月、6月にわたり連載。)7月、「現代の古典的性格への一瞥」を「仏蘭西文芸」に発表。9月、カルロ・シュアレス「Autarchie」(エッセイ)を「仏蘭西文芸」に発表。11月、召集令状を受けたが、結核の為即日帰郷。この頃中野区江古田に住む。
1935年(昭和10年)25歳
1月、アラゴン「Imaginationの対話」を「JANGLE」(アルクイユのクラブ 北園克衛編集)第1号に発表。3月、西條八十のすすめで「蝋人形」の編集に携わる。編集室は柏木町にあった西條邸の茶の間。同月「革命的神秘家ロオトレアモン」を「蝋人形」に発表。(4月まで)6月、「スウルレアリズムの精神」(評論)を「蝋人形」に発表。7月、「ヴァシエの手紙 1918・8・17」(翻訳)を「VOU」(北園克衛主宰)第1号に発表。8月、「壁―星に」、「敗北」(詩)を「蝋人形」に、「スウルレアリストの抗議」(翻訳)を「文芸汎論」(城左門・岩佐東一郎 1931年創刊)に発表。12月、「自殺せる詩人たち ネルヴァル リガオ クルヴエル」(エッセイ)を「蝋人形」に発表。この頃杉並区馬橋(現在の杉並区阿佐ヶ谷)に住む。
(重田暁輝編集・大島朋光監修)
参考文献
『大島博光全詩集』 青磁社 1986年
『西條八十全集 18巻 別巻 著作目録・年譜』 国書刊行会 2014年
田村泰次郎『わが文壇青春期』 1962年 新潮社
紅野敏郎「逍遥・文学誌7・8「東京派」田村泰次郎・大島博光・河田誠一ら」 上・下 「国文学 解釈と教材の研究」 1992年1月・2月
腰原哲朗「大島博光の青春時代―田村泰次郎との交友」 「狼煙」 2014年9月
稲木信夫 「インタビュー 大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」 『詩人中野鈴子を追う 稲木信夫評論集』 コールサック社 2014年
尾池和子 『大島博光語録 Ⅰ・Ⅱ』(私家版) 2007年
(『狼煙』81号 2016年11月)
- 関連記事
-
-
大島博光年譜(3−2) 1940年 (『蝋人形』の編集担当に) 2018/04/23
-
大島博光年譜(3−1)1939年 2018/01/02
-
大島博光年譜(2)(1936年―1938年) 2017/11/19
-
大島博光年譜(1910年―1935年) 2017/04/08
-
大島博光 略年譜 2015/03/28
-
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/3257-b345bdf9
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック