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アヴィニヨン紀行

ここでは、「アヴィニヨン紀行」 に関する記事を紹介しています。
アヴィニヨン紀行
                     大島 博光

 去年の秋、わたしは、マドリッドからパリまで、およそ十日がかりの楽しい列車の旅をした。思い出せば、カスチリヤの荒野からアンダルシーアのグラナダヘと、のろのろと走るおんぼろ列車がなつかしい。太陽海岸(コスタ・デル・ゾル)をくだって、ヴァルセロナでは、さいきんわが国でも評判になっている、ガウディのサクラーダ・ファミリア贖罪聖堂やピカソ美術館を訪れた。絶妙海岸(コード・ド・メルベイユ)に沿ってフランスに入り、小さな町コリウールでは、スペインの詩人マチャードの墓に花束をささげた。それから地中海に沿って、美しい南仏ラングドック地方の、海と沼のあいだを走って、アヴィニヨンで降りた。
 駅に廃り立つと、眼の前に城門があり、古い高い城壁が左右につづいていた。プラタナスの街路樹が黄色い葉を晩秋のやわらかい陽ざしのなかに輝やかせていた。わたしは、法王宮殿の近くのホテルに宿をとった。あたりに、市役所や小さな公会堂などのある四角い広場があって、町の中心地であるらしかった。
 ふと市役所をのぞくと、入口の広間の正面に「一九四〇年~一九五五年の殉難者たちとドイツに連れ去られた人たちの記念に」という、レジスタンスの銅版が掲げてあり、公会堂ではちょうどべ-トーベンの第九交響曲の演奏会がひらかれていた。
 夕ぐれになると、盛装した家族連れや老夫婦などが、腕をくんで散歩をたのしんでいた・・・そういえば、エルザ・トリオレの『アヴィニヨンの恋人たち』を思い出さないわけにはいかなかった。この町のどこかの壁には、「ここでペトラルカはローラのためにこよなき愛をはぐくみ歌い、その歌ゆえに彼らは不滅となった」と刻んであるそうだ。そしてエルザは書いている。「この町は、かずかずの伝説で織りなされている。毎日、ここでは伝説の糸が一本そこに織り込まれる。ここではめいめいがペトラルカであり、ひとりひとりの女がローラなのだ・・・この恋の町、この神秘で粋な町の通りには、なんと多くの不滅の夫婦がいることか・・・」
 十四世紀に建てられたという法王宮殿は、ちよっと小高いところに、灰色に、いかめしく輩え立っていた。宮殿の横手はさらに小高い岩山の公園になっていて、すぐ下に「アヴィニヨンの橋で輪になって踊る」という歌で有名な聖ベネゼの橋がひろいローヌ河のまんなかで、ぽつんと折れたままに横たわっているのが見える。
 まるで腕を半分切り落とされたまま、その腕を伸ばしているひとのようだ。この橋は十三世紀に造られたが、十七世紀の洪水で流されて、半分だけ残ったのだという。
 その向うの川の中に大きな島があって、島に生い茂ったポプラか何かの林が、いちめん明るい茶色に紅葉して輝やいていた。そのまた向こうの高みにヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニヨンの村が見え、聖アンドレ要塞が秋の陽のなかに煙っていた・・・その村に、一九四〇年、アラゴンとエルザは隠れ住んで、レジスタンスをたたかったのだった。のちにアラゴンは歌う。

 城壁のなかの アヴィニヨンのように
 きみを腕のなかに抱いて 十八年
 香ぐわしい たった一日のような十八年
 わたしの愛は しっかりときみを守ってきた
 秋はもう あたりの茂みを紅葉に飾り
 こがねの枝の下に 冬は早くも しのびよる
 だが冬も わが愛するひとに 何ができよう
 われらのなかに すばらしいささやきの残るかぎり
 火が消えたときにも 煙りが立ちのぼり
 夜のなかにも 桑の実のほろ苦い味の残るかぎり

                                (詩人)
     <「婦人通信」1979年>

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