三鷹のお宅におじゃましたころ

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三鷹のお宅におじゃましたころ
                           中島荒太

 私が三鷹の大島博光さんのお宅を訪ねるようになったのは大島さんが詩集『ひとを愛するものは』で多喜二百合子賞を受賞されて以降のことであったと思う。それまでにももちろん詩人・翻訳家大島博光の名前は承知していたし、詩人会議の講演などでお会いしたこともあったが、しばしばお会いするようになったのは第十七回同賞受賞の一九八五年以降、つまり大島さん晩年の二十年ほどであった。
 当時私は「しんぶん赤旗」日曜版編集部所属の記者であった。受賞のインタビューのためにカメラマンとともに三鷹市下連雀のお宅に伺ったのが始まりである。編集部在職中はもちろんのこと、退職後もよくお訪ねした。
 大島さんはラグビーと釣りにことのほか関心を示されたが、私はスポーツも釣りも興味を持たなかったので、主としては時節の政治、社会の動きが話題になった。ネルーダ、マチャード、アルベルティ、ゴーシュロンの名前もしばしば耳にしたが、新聞の読者欄の投稿などをよく話題にされたのを覚えている。作りたての自作の詩を見せて感想や意見を求められることもあった。大島さんは誰よりもわれわれ素人の率直な感想を大事にされていたのではなかろうか。
 大島さんのお宅は三鷹駅からバスで二つ目の停留所で降りて二百メートルほどのところにあった。タ刻になると私たちは三鷹の駅の近くまで歩いて出かけた。特に決まった店があったわけではない。駅前のデパートの三階だったか、大衆的なレストランなどに入った。大島さんはそこで銚子を傾けながらタ食をとり、私はもっぱら酒の相手をした。
 「午後六時の男だよ、オイ」─大島さんは前歯の欠けた人なつっこい笑顔をつくりながら、そのように外食をされていたところをみると、奥さんの静江さんを亡くされてすでにかなりの年月が経ったころではなかったかと思う。静江さんを亡くされた当初は、まるで魂が抜けたような落ち込みようであった。ようやく気力も回復して『老いたるオルフェの歌』などまとめておられたころであったのだろう。
 レストランでの晩的、タ飯をすませた私たちは、また下連雀の家への道を戻って行った。ほろ酔い加減の大島さんは道路わきの喫茶店の中に若い女性たちを見かけると、ガラス越しに「ボン・ソワール」と挨拶の真似ごとをしたりして、上機嫌だった。『ひとを愛するものは』の出版記念会の二次会でのこと、詩人の土井大助氏が「今日も若い女性がいっぱいだったなあ。大島さんはどうして若い女性にあんなにモテるのかなあ」と羨ましそうにつぶやいていたが、大島さんの作品を読むと、その青年のような詩魂の若々しさが一つの魅力だ。海外の大詩人たちの詩法なども貪欲に吸収して独自の韻律の言葉が展開される。私もまた詩人のそうしたみずみずしい若さにひかれてあのころ三鷹のお宅へと向かったのであった。

(大島博光記念館ニュース40号)

二人
1985年春 多喜二・百合子賞を受賞した頃
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