短い春 ──コミューンの蜂起(6)

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 誠実で、寛大で、お人好しのコミューンがぐずぐずしているあいだに、ティエールとヴェルサイユ政府は、コミューンを圧しつぶすために、陰険で、憎悪にみちた準備を着々とすすめていた。四月一日、ティエールは全国の知事や師団長や警務部長にあてて打電した。
 「パリでは、コミューンはすでに分裂し、いたる所にデマをまき散らし、公金を奪って濫費し、無能で動揺している。コミューンを忌み嫌うパリ市民は、一日も早く解放されることを待ち望んでいる。
 政府のまわりに結集した国民議会は、平穏裡にヴェルサイユで開会中である。ヴュルサイユには、フランスがかつてもった、もっとも立派な軍隊の一つが組織を完了している。」
 やがて労働者のパリに襲いかかる、この’立派’な軍隊は、ビスマルクの援助によるものであった。ビスマルクは、休戦条約の条項を破って、捕虜にしていたフランス兵をティエールに返してやる。四万に制限されていたパリの軍隊──ヴェルサイユ軍は十万を突破する。
 (第二次大戦においても、ヒトラーは多くの捕虜を、売国奴ペタンのもとに返してやった。返された捕虜たちは、ペタンの手先となって、レジスタンスの愛国者たちを追及し、弾圧する役割をひきうけたのである。)

 こうして四月二日、ヴェルサイユ軍のパリ進撃は、その火ぶたを切っておとし、フランスのブルジョアジーは、フランス人民にたいして、史上まれにみる残虐な弾圧戦争を始めたのである。とりわけ、五月二十二日から二十八日にいたる最後の七日間は、「血の週間」として知られている。パリケードの上で大量虐殺がおこなわれ、コミューンの多数の連盟兵(フェデレ)たちが銃殺されたペール・ラシェーズ墓地の壁は、「連盟兵(フェデレ)の壁」として有名である。
(この項おわり)

(『パリ・コミューンの詩人たち』)

あまバラ
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