短い春 ──コミューンの蜂起(5)コミューンのあやまちと教訓

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 三月二十六日のコミューン選挙によって選ばれた国民議会の構成は、雑多なものであった。議員となったブルジョアおよび小ブルジョアの共和主義者たちは、初めはコミューンを支持していたが、コミューンがプロレタリアートに依拠した、まったく新しい政治形態をとりはじめるやいなや、コミューンから離れてゆく。
 「コミューンは、知性に富み、勇気にあふれ、信じられぬような誠実さをもった人々によって構成されていた。かれらは大衆のために、あらゆる生命の安全を守ることに心をくだき、それを自分たちの義務とした。」とリッシャール・ブロックは書いている。
 しかし、その「信じられぬような誠実さ」のゆえに、コミューンは決定的なあやまちを犯すことになる。

 マルクスは、クーゲルマンに宛てた一八七一年四月十二日付の手紙のなかに書いている。
 「……もし彼らが敗れるとすれば、それは彼らの『お人よし』のためにすぎない。まずヴィノアが、つぎにはパリの国民軍の反動的部分が自分で逃亡したあとでは、すぐにヴェルサイユへ進撃すべきであった。だが、せっかくの好機は、いらぬ遠慮のためにとりにがされてしまった。……第二の誤りは、(国民軍)中央委員会が、その権力を放棄してコミューンに席を譲るのが、早すぎたことである」(国民文庫版『フランスにおける内乱」一六七ページ)

 もう一つの決定的な誤りは、フランス銀行を接収せずに、これまた「誠実に」、そのまま手をつけずに放置しておいたことである。
 レーニンは『コミューンの教訓』のなかに書いている。
 「しかし二つの誤りが、輝かしい勝利の成果を、すっかり台なしにしてしまった。プロレタリアートは、中途で立ちどまった。すなわち、『収奪者の収奪』に着手するかわりに、彼らは、全民族的任務によって統一される最高の正義を国内に確立するという空想に心酔した。たとえば、銀行のような機関が奪取されないで、「公正な交換」などというプルードン主義者の理論が、まだ社会主義者のあいだで支配していたのである。第二の誤りは、プロレタリアートが寛大すぎたことである。すなわち、自分たちの敵を全滅すべきであったのに、彼らは、精神的に敵に影響をあたえようと努力し、内乱で純軍事的な行動がもっている意義を軽視し、断固としてヴェルサイユを攻撃してパリの勝利に栄冠をかざるかわりに、彼らはぐずぐずしていて、暗黒勢力を結集して五月の血の一週間を準備する時間をヴェルサイユ政府にあたえてしまったのである。
 だが、そのすべての誤りにもかかわらず、コンミューンは、十九世紀のもっとも偉大なプロレタリア運動の、もっとも偉大な模範である」(大月版『レーニン全集』第十三巻四九〇ページ)

 しかし、コミューンは、その七十二日間の存命ちゅうに、すばらしい事業を実行する。マルクスは書いている。
 「コミューンの偉大な社会的方策は、行動するコミューンそのものの存在であった。コミューンの個別的な諸方策は、人民による人民の政府のすすむべき方向を示すことしかできなかった……」(国民文庫版『フランスにおける内乱』九二ページ)
 レーニンは、マルクスの分析をさらに発展させていった。
 「コミューンは、プロレタリア革命によって『ついに発見された』、労働の経済的解放をなしとげるための形態である。」(国民文庫版『国家と革命』七四ページ)
(つづく)

(『パリ・コミューンの詩人たち』)

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