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故 清茂さんとの思い出の数々

ここでは、「故 清茂さんとの思い出の数々」 に関する記事を紹介しています。
<小山清茂展で配布された小山淑子さんの手記を紹介します>

故 清茂さんとの思い出の数々
                             小山 淑子 小山清茂氏令夫人

 信州の人が、一度もあったことの無い都会の娘と結婚するなんて、考えられますか?
 現在のように携帯電話やパソコン、デジカメを子供も手にし、未知の場所にはカーナビの指示どうりに運転すれば、車で何処へでも辿り着ける世の中ではない時代のお話です。
 小山清茂と徳永淑子は、結婚式を挙げる直前まで一度も顔を合わせていません。それは昭和十九年(1944)の第二次世界大戦末期頃のことでした。行きずりでは無く、立派に仲人さんがおられます。
 片や短気な男性、方やのろまな女性。海の無い山ばかりの信州育ちの人は甲種合格の折り紙が付くような立派な体格。
 山と海の見える所で大勢の人の中で育てられた小さな子は、女学校の後半でやっと身長が伸び始め、強風に会えばすっ飛んでしまいそうな体付き。
 心から信頼できる人しか心を許さない性格の持ち主に対して、イギリスの人もアメリカの人も、中国や朝鮮から移り住んだ人でも、インドがお国と言う人でも、この人は安心してお話が出来そうと直感したらお友達になれる性格の持ち主。人の面倒はあまり見ないのに対して、困った人に出会うと知らない振りは出来ない性質。
 嬉しくても表に出さないで静かな人に、飛び上って大喜びする派手な人。
 どう考えても二人は、共に生活が出来そうにない者同志でしょう。それでも赤い糸で結ばれたのは 山田龍男先生でした。
 清茂さんの長野師範学校時代の恩師で、淑子のピアノの先生です。共通点は音楽と文学の虜になることかなあ。でも曲がったことは嫌いだなあ。しかもお世辞は言えないなあ。本当のことを口にして誤解を招き易いことも同様だなあ。と口上をご披露しました。
 十歳も離れているから半年も持たないよ、と私の身内には心配されました。
 士族の家と農家では生活様式は全く異なって、淑子は嫁ぎ先では役に立たないし、体格は貧弱だからお払い箱だ、と言われました。
 清茂さんも私も山田先生を信頼して結婚の意志を固めましたが、外野が煩わしくて、私は少なからず心細くなりました。
 でも、清茂さんの家族は、何も出来ない淑子を常に庇って下さいました。そのお陰で少しずつ清茂さんの生家がある村山の仕切りを覚え、山の中の生活が心安らかな所となりました。「貴女はご主人の家へ行くと肥って来るのね。普通はお姑さんに気兼ねして痩せるのよ」と知人に言われました。
 村山へ帰ると、東京での複雑な仕事から解放され、心身共に疲労した淑子は自然の恵みと人々の暖かい心遣いですっかり癒されるのです。
 清茂さんより淑子の方が村山へ帰る度数が多かったですね。「淑子ちやんにお願い。清茂さんを作曲家にして欲しい。こんな時世だから舞台で演奏されることは叶わないかも知れないけれど。彼の夢なんだ。」と山田先生ご夫妻から言われました。  清茂さんには、「淑子ちやんは信州や東京の事は何も判らないから、清茂君はよく面倒を見て教えてやってなあ。」と、お願して下さいました。
 真面目な人は九十五歳の幕を閉じるまで、淑子を気遣っていました。
「買い物に出かけるときの儀式だ」と良く笑いますが、「よっちん、四つ角では急に出ないでな。右を見て左を見て、又右を見てから渡りなさい。交通事故に合わないようにな。」
「ガスの元栓や電源は切ったか?財布を忘れるでねえぞえ。お金支払ってから品物を持って来るんだよ。」
 今はそれを聞くことが出来ないのが寂しく悲しいです。
 結婚式の後、山田先生のお宅で泊まりました。私は両手をついて丁寧に頭を下げて挨拶をしました。
 「文学と音楽を教えて頂きたいので、よろしくお願いします。」
 「馬鹿だなあ。勉強と言うものはな、てめぇでするもんだ。」と一喝。関西で馬鹿と言われることは最低で、普通は「阿呆かいなぁ。」だし、てめぇなどと言われた事が無いから飛び上がる程驚き、涙が出ました。
 「文学と音楽は清茂君に教われるから。」の、山田先生のお話は嘘なのかと、翌朝報告したら、「早速やられたか。気の毒だったな。」と、笑われました。
 以後自分で勉強したい時は指導者を探し、勉強のために出掛ける時は、「手前で勉強して来ます。」と挨拶しました。
 若いときは、「頑張れ、勉強で金が掛かるなんてけちな事は考えるな。」と、送り出してくれました。私が万葉集や和紙の勉強会に長年出られたのは、清茂さんのお陰でした。
 そのお礼に作曲の手伝いは一生懸命しました。清茂さんの苦手な打ち合わせ、資料集め、写簡、来客の折の付き添い、演奏会のチケットの捌きから接待、電話の応対、時には音楽教室の子供に作品を試漬させたり、万承り屋でした。
 作品が受賞したり、演奏会が成功した時は二人で喜び合いました。
 「よっちんのお陰だなあ。また頼むな。」
 仕事の手伝いをしていたから、色々な方と出会えて教えられることが数々ありました。年配の方もお若い方からも頂戴した知識は、学校で教われなかったものでした。
 淑子は清茂さん亡き後も、舞い込む仕事を通じて未だに多くのことを学んでいます。財産は無いけれど、目に見えない沢山のお陰を戴いております。
 感謝しながら一日を大切に過ごしたいと思います。皆様どうぞご支援下さい。
 私は仕事を残さずに遣り遂げ、安心して清茂さんに報告出来る様になりたい心一杯です。
 二人三脚の相棒を無くした淑子の手帳から。
                            (平成二十一年九月二十日)
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