反対運動を指導した田部井健次
1953年4月2日の米軍の申し入れで大騒ぎになった軽井沢で、土屋善夫さん、荒井輝充さんら若者の素早い行動から反対運動は広がりました。4月5日には西地区の4区長が集まって反対連合が作られ、4月10日には町の連合青年団が理事・代議員会を開き、町民大会を開くよう町に要請、署名運動を始めました。
町議会は対策委員が山中湖富士演習場を視察して実態調査し、4月17日に緊急町議会を招集し、絶対反対を決議しました。連合婦人会をはじめ、教職員組合・電通・国鉄・草軽電鉄などの労働組合も反対を決議して行動しました。
こうした中で、反対運動はかけがえのない指導者を得たのでした。委員長を務めた田部井健次さんです。
◇ ◇ ◇ ◇
町民大会と全町協議会
四月も末の二十九日になって、ようやく町内二十四集落の区長会議が開かれました。連合青年団も連合婦人会も教職員組合も労働組合もそれぞれ代表を参加させましたが、主体は区長なので発言は控えていました。
西地区では幾度か区長会も開かれ、区民大会でも話し合われていましたが、もし基地ができれば、開拓者の生活は完全に破壊されて、もう何処へも行くところがないのだと深刻な問題が話され、ほかの農村部の区長からも、強い調子で絶対反対が叫ばれました。中軽井沢や新道・旧道の市街地の人たちも、風紀が乱れ、子供たちが堕落し、観光が成り立たなくなる、と猛反対を表明しました。基地反対では完全に意見が一致したのです。
しかし、運動の進め方に話がいくと、意見が出なくなりました。西地区の区長会では、きちんとした本部を作って町民大会を開き、近隣市町村に呼びかけることなどが話し合われていたのですが、気後れしたのでしょうか?連合青年団は以前からその方針でしたが、黙っていました。
最後に発言を求めたのが、千ヶ滝西区の区長、田部井健次さんでした。私はそれまで田部井さんのことは全く知りませんでしたので、とても驚きました。実に静かにゆっくりと話し始めた時、会場はしーんと静まりました。それもそのはず、田部井さんはその道の大ベテランだったのです。
ちょっと紹介しますと、「満州事変」の前年、昭和五年に労農党の大山郁夫委員長の下で、三十二歳の若さで書記長に任命され、翌年、全国労農大衆党が樹立されて、その中央委員となり、その次の昭和七年には日本労働組合総評議会の書記長に抜てきされました。なぜこのように職務がころころ変わったかというと、当時の政府は治安維持法によって、そうした政党や組合に解散を命じたり、弾圧し、共産党員はすべて監獄にぶち込まれ、「蟹工船」で知られた作家小林多喜二は虐殺されていました。大山郁夫委員長はアメリカに亡命し、田部井さんも拷問を受けたせいでびっこを引くようになりました。運動は壊滅し、刀折れ矢尽きた形で田部井さんは政界を引退し、画家として千ヶ滝集落に住んで、その区長をやっていた人なのです。
田部井さんは、そもそも米軍が浅間山麓に演習地を作りたいと言い出したのは、日米安全保障条約の行政協定によってであって、米軍が日本の何処にでも「基地を作りたい」と言えば、「日本政府はそれに協力しなければならない」(行政協定第二条・第三条)と決められているからで、ちょっとやそっとの反対ではだめだ、と話されました。
そうして、町長が誘致の陳情をしたなどの噂もあるなかで、町議会が反対決議をしたからといってとても任してなどおけず、町民全体が一致団結して反対運動を進めるために、しっかりした組織を作って、町民大会を開き、長野県中に呼びかけて大きな運動に発展させなければ勝てない、と長々話されました。
誠に筋の通った理路整然とした話に異論はなく、二、三質問があって町民大会の段取りに話が進みました。
実は町会議員の中には「労働組合は入れないほうがよくはないか」とか「赤の運動と思われればマイナスになる」などの声があったようですが、青年たちは断固それを拒否しました。
町民大会は五月三日、中学校体育館で一千五百人を集めて盛大に開かれました。西地区からはムシロ旗を先頭に、手に手に「聖地軽井沢を守れ」「パンパンの町にするな」「子供達を守れ」などのプラカードを持って堂々と行進し、町役場の前で気勢をあげ、中学校へと進みました。この勢いに、町民に内緒で誘致の陳情をした連中やその取り巻きは、真っ青になっておろおろしていたそうです。
大会は熱気に包まれました。これだけ集まると、みんな元気が出て、「勝てるだろうか?」「赤の運動と思われはすまいか?」といった声もなくなりました。
大会の決議によって、全町的な反対運動の中核となる《演習地反対全町協議会》が作られました。
選ばれた役員は次の方々です。
委員長 田部井健次(千ヶ滝西区)
副委員長 一條重美(旧軽井沢)
同 飯島喜文太(沓掛)=(中軽井沢)
同 寺島乾三(三石開拓田)
委員長の田部井健次氏は先に紹介したように、こうした運動の得難い指導者でした。副委員長の一條重美氏は旧軽井沢の薬局の主人で、実は東大出身の文学者でした。友人が外務省や文部省にもいて、そちらからの情報も入りましたので、全町協議会は実に有利に活動することができました。同じく副委員長の飯島喜文太氏は中軽井沢のボス的存在で、町長などにも意見のできる人でした。また、寺島乾三氏は反対の意志が最も堅固な三石開拓団の団長でした。おまけに、事務局員に我らが青年団員で、高原塾の仲間だった小川貢君を入れてもらったことは、実に好都合でした。飯島喜文太氏のあっせんで、役場内の一室を事務所として使わせてもらい、反対運動はすべて全町協議会に一本化して、ばらばらな行動は一切取らないことを各方面に徹底し、本格的な第一歩が踏み出されたのです。
(荒井輝充「軽井沢を青年が守った 浅間山米軍演習地反対闘争1953」)
1953年4月2日の米軍の申し入れで大騒ぎになった軽井沢で、土屋善夫さん、荒井輝充さんら若者の素早い行動から反対運動は広がりました。4月5日には西地区の4区長が集まって反対連合が作られ、4月10日には町の連合青年団が理事・代議員会を開き、町民大会を開くよう町に要請、署名運動を始めました。
町議会は対策委員が山中湖富士演習場を視察して実態調査し、4月17日に緊急町議会を招集し、絶対反対を決議しました。連合婦人会をはじめ、教職員組合・電通・国鉄・草軽電鉄などの労働組合も反対を決議して行動しました。
こうした中で、反対運動はかけがえのない指導者を得たのでした。委員長を務めた田部井健次さんです。
◇ ◇ ◇ ◇
町民大会と全町協議会
四月も末の二十九日になって、ようやく町内二十四集落の区長会議が開かれました。連合青年団も連合婦人会も教職員組合も労働組合もそれぞれ代表を参加させましたが、主体は区長なので発言は控えていました。
西地区では幾度か区長会も開かれ、区民大会でも話し合われていましたが、もし基地ができれば、開拓者の生活は完全に破壊されて、もう何処へも行くところがないのだと深刻な問題が話され、ほかの農村部の区長からも、強い調子で絶対反対が叫ばれました。中軽井沢や新道・旧道の市街地の人たちも、風紀が乱れ、子供たちが堕落し、観光が成り立たなくなる、と猛反対を表明しました。基地反対では完全に意見が一致したのです。
しかし、運動の進め方に話がいくと、意見が出なくなりました。西地区の区長会では、きちんとした本部を作って町民大会を開き、近隣市町村に呼びかけることなどが話し合われていたのですが、気後れしたのでしょうか?連合青年団は以前からその方針でしたが、黙っていました。
最後に発言を求めたのが、千ヶ滝西区の区長、田部井健次さんでした。私はそれまで田部井さんのことは全く知りませんでしたので、とても驚きました。実に静かにゆっくりと話し始めた時、会場はしーんと静まりました。それもそのはず、田部井さんはその道の大ベテランだったのです。
ちょっと紹介しますと、「満州事変」の前年、昭和五年に労農党の大山郁夫委員長の下で、三十二歳の若さで書記長に任命され、翌年、全国労農大衆党が樹立されて、その中央委員となり、その次の昭和七年には日本労働組合総評議会の書記長に抜てきされました。なぜこのように職務がころころ変わったかというと、当時の政府は治安維持法によって、そうした政党や組合に解散を命じたり、弾圧し、共産党員はすべて監獄にぶち込まれ、「蟹工船」で知られた作家小林多喜二は虐殺されていました。大山郁夫委員長はアメリカに亡命し、田部井さんも拷問を受けたせいでびっこを引くようになりました。運動は壊滅し、刀折れ矢尽きた形で田部井さんは政界を引退し、画家として千ヶ滝集落に住んで、その区長をやっていた人なのです。
田部井さんは、そもそも米軍が浅間山麓に演習地を作りたいと言い出したのは、日米安全保障条約の行政協定によってであって、米軍が日本の何処にでも「基地を作りたい」と言えば、「日本政府はそれに協力しなければならない」(行政協定第二条・第三条)と決められているからで、ちょっとやそっとの反対ではだめだ、と話されました。
そうして、町長が誘致の陳情をしたなどの噂もあるなかで、町議会が反対決議をしたからといってとても任してなどおけず、町民全体が一致団結して反対運動を進めるために、しっかりした組織を作って、町民大会を開き、長野県中に呼びかけて大きな運動に発展させなければ勝てない、と長々話されました。
誠に筋の通った理路整然とした話に異論はなく、二、三質問があって町民大会の段取りに話が進みました。
実は町会議員の中には「労働組合は入れないほうがよくはないか」とか「赤の運動と思われればマイナスになる」などの声があったようですが、青年たちは断固それを拒否しました。
町民大会は五月三日、中学校体育館で一千五百人を集めて盛大に開かれました。西地区からはムシロ旗を先頭に、手に手に「聖地軽井沢を守れ」「パンパンの町にするな」「子供達を守れ」などのプラカードを持って堂々と行進し、町役場の前で気勢をあげ、中学校へと進みました。この勢いに、町民に内緒で誘致の陳情をした連中やその取り巻きは、真っ青になっておろおろしていたそうです。
大会は熱気に包まれました。これだけ集まると、みんな元気が出て、「勝てるだろうか?」「赤の運動と思われはすまいか?」といった声もなくなりました。
大会の決議によって、全町的な反対運動の中核となる《演習地反対全町協議会》が作られました。
選ばれた役員は次の方々です。
委員長 田部井健次(千ヶ滝西区)
副委員長 一條重美(旧軽井沢)
同 飯島喜文太(沓掛)=(中軽井沢)
同 寺島乾三(三石開拓田)
委員長の田部井健次氏は先に紹介したように、こうした運動の得難い指導者でした。副委員長の一條重美氏は旧軽井沢の薬局の主人で、実は東大出身の文学者でした。友人が外務省や文部省にもいて、そちらからの情報も入りましたので、全町協議会は実に有利に活動することができました。同じく副委員長の飯島喜文太氏は中軽井沢のボス的存在で、町長などにも意見のできる人でした。また、寺島乾三氏は反対の意志が最も堅固な三石開拓団の団長でした。おまけに、事務局員に我らが青年団員で、高原塾の仲間だった小川貢君を入れてもらったことは、実に好都合でした。飯島喜文太氏のあっせんで、役場内の一室を事務所として使わせてもらい、反対運動はすべて全町協議会に一本化して、ばらばらな行動は一切取らないことを各方面に徹底し、本格的な第一歩が踏み出されたのです。
(荒井輝充「軽井沢を青年が守った 浅間山米軍演習地反対闘争1953」)
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