「軽井沢を青年が守った」(4)青年団と高原塾

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 青年団と高原塾

演習地反対運動で、中核となって活躍したのは青年団の若者たちでした。
終戦後、政治問題に関心をよせ、議論するようになった彼らを手助けしたのが、追分に住み着いた文化人たちが開いた高原塾でした。

◇   ◇   ◇   ◇
西地区連合青年団のルーツ
 三石や大日向の開拓団が入植する以前の追分や借宿はさびしい農村でした。借宿には多少大きな農家もありましたが、追分にはそれがなく、商売として成り立たなくなった旅籠が、あちらこちらと残っている状態で、空き地になった所に自家用の野菜などを作っているぐらいでした。
 そういう中で生まれ育った若者が、演習地反対運動で大活躍しました。
 その背景のひとつに、軽井沢独特の歴史があります。さびれた宿場でけなげに生きている人の姿を見て、言い知れぬ哀れをもよおした文人墨客が大勢やって来るようになりました。彼らは旅籠として唯一つ残っていた脇本陣の油屋に泊まるようになり、若者たちに多大な影響を及ぼすようになったのです。その中には芥川龍之介や高浜虚子、若山牧水などもいたでしょうか?北原白秋の"落葉松"という詩は追分の山野を散策した時に生まれたのではないか、と私には思われます。
 追分をこよなく愛した文人たちの中に堀辰雄さんがいたことが、その後の追分に大きな影響を残したと思います。堀先生は大正の終わり頃、芥川龍之介と追分に来たのが初めでした。その後ちょいちょい油屋で夏を過ごし、また、冬にも訪れ、やがて終のすみかもつくるようになりました。その友達もやって来て、別荘ではなく一年通して住む家をつくるようになりました。その中に我らが橋本福夫先生がいたのです。
 橋本先生はアメリカ文学が専門で、翻訳など少しやっていましたが、終戦になる二年前(一九四三年)、追分の分去れ近くに茅葺き屋根の家と少しの畑を買い、晴耕雨読の生活を始めました。当初は電気のないランプ生活だったそうで。小説家の福永武彦さんや北欧文学の山室静先生は、既に油屋の裏のほうに別荘をもっていました。少し離れた所には加藤周一さんの別荘もあり、その人たちが集まると「今度の戦争は日本の惨めな負けになるだろう」とか、「これからは次世代を担う青年を養成しなきゃあ」などの話が出たそうです。
 とにかく橋本先生は、農業などしたことがないので、農家の人に教えてもらったりしているうちに、村人と仲良くなりました。その農家が小林巻造さんでした。ところが今度は、その「巻さん」に頼まれて追分の区長をやったり開懇組合の組合長をやったり、人のいい橋本先生は何でも引き受けてくれました。我らの「高原塾」の塾長も引き受けてくれたことで、私たちにとって忘れられない恩師になったのです。

 とうとう長い長い戦争が終わりました。満州事変から十五年、国民をだました侵略戦争はアジアの人々に多大な損害を与え、自らも原子爆弾の洗礼を受けて無条件降伏したのです。戦時中は、お年寄りと女子供ばかりだった所へ戦地から若者が戻って来ました。彼らはもはや殺すことも殺されることもなくなり、上官から死ぬほど殴られることもなくなり、解放感で朗らかになりましたが、就職する職場はありません。食料事情は回復せず、農家でも米が十分に食べられなかったので、上州(群馬県)へサツマイモの買い出しに行ったり、ヤミ屋という非合法の商売に手を出して、ゆとりのある農家から米を買い集め、都会で高く売って大もうけする人もありました。焼け野原になった東京などから疎開して来た人たちも大勢いて、農村と言えども大変な食料難だったのです。
 村は組合を作って開塾を奨励しました。“増反組合”と言って、主に国有林を払い下げてもらって開塾したのです。組合長を引き受けてくれた橋本先生は営林署や県とも交渉してくれました。三石開拓団の人たちとは開拓という点で共通していましたので、秋には一緒にソバなどを打って、収穫祝いで一杯飲んだりしました。
 冬は、失業対策に営林署が考えた国有林の藪切りや枝打ちの仕事をしました。数年経って戦後復興も進み、景気も少し良くなってくると、復員兵だった人たちは実家の世話にもなり切れないと、ぽつぽつ都会に出て行くようになり、残された私たちが演習地反対運動の中核になったのです。

高原塾のこと
 いつの間にか若者の心の中に「未来は自分たちで切り開かなければ」「大人の言うことを聞いているだけではだめだ」という気概というか情熱が、ひたひたと染み込むように、沸き出すようになってきました。初めは「自分の伴侶は自分で見つけよう」などという、幼稚な反封建の運動でしたが、やがて政治問題にも関心をよせ、寄ると触ると議論するようになりました。そんな時、その手助けをしてくれたのが堀辰雄先生のお友達の先生方でした。
 追分の区長をやっていた橋本福夫先生のところへ、北欧文学の山室静先生がやって来て、「これからは若者を養成しなければだめだ」と言ったのが始まりのようで、先生方は最初、島崎藤村の小諸義塾にちなんで小諸で”高原学舎”というのを始めたのですが、資金が続かず三年ぐらいで破たんしました。その時、我が親友の小川貢君が「追分でやってもらえないか」と頼んだのです。彼はその”高原学舎”に小諸まで通っていたのでした。
 なんとも虫のいい話です。週に一度、夜に寺の小部屋か小学校の教室で開く塾は、学費なし、講師は無償。こんなとんでもないことを橋本先生は引き受けてくれたのです。さあ大変!小川君からの連絡で、追分では久能君、借宿は水沢・林田・土屋善夫君などが駆け回り、二十人ぐらいの人数になりました。昭和二十三(一九四八)年の夏でした。私たちは当時十七歳でした。
 塾は毎週水曜日、教室はその時々都合のつく人が交渉して決めることにしたらしく、ずいぶんと小川君には世話になりました。小川貢君は追分の脇本陣・油屋旅館の一人息子で私とは無二の親友でした。橋本先生を塾長に据えたとはいえ、実質的には小川君が塾長だったのです。先生は橋本先生のほかに、福島要一先生・片山(徹)先生(地質学)・阿部先生(獣医)・木內謙一先生(農業)・佐々木基一先生(文芸評論家)・山室靜先生・福永武彦先生などなど。橋本先生の人脈は驚きで、高原塾の講義に、夏に追分にやってくる学者先生を片っ端から引っ張り出してくれました。その中に、東大総長を務められた矢内原忠雄先生やそのご子息の矢内原伊作先生などにも、無償で講義をしてもらい、恐れ多いことでした。
 高原塾は自分たちが講義してもらうだけでなく、先生方にお願いして、村人を集めた講演会などもしたようですし、先生の都合のつかないこともあって、レコードを聴く会などもしたようです。
 橋本先生は「何事も疑ってかかれ」「新聞を読む時は小さな見出しの記事に注意」などと、普段注意すべきことを教え、また、アメリカフロンティアの話もされました。福島先生は社会問題などを多く話され、終わってから色々と議論したことが思い出されます。特に教育方針はなく、その時その時、先生が「今日はこんなことを話そう」と考えてきたことを講義されたのでしょうが、「これからの未来を託すことのできる若者を育てよう」という大方針がありました。それが私たちに伝わり、逆に「未来は自分たちで切り開かなければ」という若者の情熱が先生方に伝わり、うまくマッチしたのでしょうか。
 片山先生は内村鑑三先生の影響を受けた敬度なクリスチャンで、キリストの生い立ちや、聖書に出てくる言葉などを説明してくれました。政治の話もされて、戦争の罪悪、破防法反対の話など、非常に感銘を受けました。塾で講義していただいた回数は、片山先生が一番多かったと記憶しています。塾は三年近く続きました。御恩は決して忘れません。
(荒井輝充「軽井沢を青年が守った 浅間山米軍演習地反対闘争1953」)

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