問題の起こる前年、軽井沢町長は外務省国際協力局長に陳情していました。それは軽井沢を米駐留軍駐屯地として指定するよう懇願する内容でした。
荒井輝充さんはこの陳情書と、その後の反対運動が、町の歴史に大いに関係があったと述べて、軽井沢の歴史について書いています。
◇ ◇ ◇ ◇
軽井沢町を東西に貫く国道十号線(現在十八号)は、旧中山道と呼ばれ、江戸時代は五街道の一つでしたが、町内には追分・沓掛・軽井沢という三つの宿場があり、浅間三宿などと呼ばれていて、それぞれに飯盛女を置いた旅籠が並び、旅人をもてなしたそうです。中でも追分宿は北国街道との分岐点に当たり、越後からは北前船で運ばれた北海道や越前からの珍品、中山道は名古屋や江戸からの珍品と、様々な物品が集まり、それらの取引がおこなわれていました。商売が成立すると芸子をあげて宴会となります。その頃が最も繁盛したようでした。
幕府は遊郭(吉原)だけを黙認して、他の宿場女郎は厳しく取り締まったようですが、水のみ百姓など、貧乏人をなくすことができない以上、法の網の目をくぐった「めしもり女」を減らすことはできなかったのです。
もっとも、すべての旅籠があこぎな商売をしていたわけでもなく、可愛いがって育てた家もあり、人気の上がった芸子は吉原に転身させたり、逆に吉原で売れなくなった彼女らを受け入れることもあったようで、追分の諏訪神社には遊郭吉原から寄進された神興が奉納されていました。
この歴史が、町長一派を演習地誘致の陳情に向かわせたのだと思います。ほかには考えられません。
浅間根腰の 焼け野の中で
あやめ咲くとは しおらしや
浅間山さん なぜ焼けしゃんす
すそに三宿 もちながら
追分節に謡われたように、浅間山から吹き出された小石まじりの砂地は農業には適さず、旅人の置いていくお金が唯一の収入源だった頃、めしもり女は重要な役割を果たしたのです。江戸時代の栄えた頃には追分だけでも茶屋・旅籠だけで九十戸を数え、それらに抱えられためしもり女は二百人から三百人などという記録があるそうです。これらは昭和初期、追分小学校の校長を務められた岩井博重先生の著された『江戸時代東信濃宿村の歴史」という本に詳しく紹介されています。
とにかく江戸時代の軽井沢は、中山道・浅間三宿によって成り立ち、追分の隣の借宿、そのまた隣の古宿などの部落は「助郷」などと呼ばれて、参勤交代の大名行列が通る時など、人馬・人足などに駆り出されたものと思われますが、江戸の末期、皇女和宮の東下りの頃を最後にさびれはじめ、明治・大正と進むにつれて次第に宿場は成り立たなくなっていきました。明治二十六年、信越線に汽車が走るようになったのが決定的でした。中でも追分は最もひどく、借金で首の回らなくなった一家が、夜中にこっそりと家を捨てて逃げ出す、いわゆる夜逃げが続出しました。住む人のいなくなった家の傷みは早く、寒い冬の真夜中に、雪の重みでつぶれる家が出るようになりました。「どどーん、と大きな音と地響きで、そりゃーこわかったよ」と、最後まで旅籠として残った脇本陣の主人、小川誠一郎さんが話してくれたことがあります。(荒井輝充「軽井沢を青年が守った 浅間山米軍演習地反対闘争1953」)
荒井輝充さんはこの陳情書と、その後の反対運動が、町の歴史に大いに関係があったと述べて、軽井沢の歴史について書いています。
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軽井沢町を東西に貫く国道十号線(現在十八号)は、旧中山道と呼ばれ、江戸時代は五街道の一つでしたが、町内には追分・沓掛・軽井沢という三つの宿場があり、浅間三宿などと呼ばれていて、それぞれに飯盛女を置いた旅籠が並び、旅人をもてなしたそうです。中でも追分宿は北国街道との分岐点に当たり、越後からは北前船で運ばれた北海道や越前からの珍品、中山道は名古屋や江戸からの珍品と、様々な物品が集まり、それらの取引がおこなわれていました。商売が成立すると芸子をあげて宴会となります。その頃が最も繁盛したようでした。
幕府は遊郭(吉原)だけを黙認して、他の宿場女郎は厳しく取り締まったようですが、水のみ百姓など、貧乏人をなくすことができない以上、法の網の目をくぐった「めしもり女」を減らすことはできなかったのです。
もっとも、すべての旅籠があこぎな商売をしていたわけでもなく、可愛いがって育てた家もあり、人気の上がった芸子は吉原に転身させたり、逆に吉原で売れなくなった彼女らを受け入れることもあったようで、追分の諏訪神社には遊郭吉原から寄進された神興が奉納されていました。
この歴史が、町長一派を演習地誘致の陳情に向かわせたのだと思います。ほかには考えられません。
浅間根腰の 焼け野の中で
あやめ咲くとは しおらしや
浅間山さん なぜ焼けしゃんす
すそに三宿 もちながら
追分節に謡われたように、浅間山から吹き出された小石まじりの砂地は農業には適さず、旅人の置いていくお金が唯一の収入源だった頃、めしもり女は重要な役割を果たしたのです。江戸時代の栄えた頃には追分だけでも茶屋・旅籠だけで九十戸を数え、それらに抱えられためしもり女は二百人から三百人などという記録があるそうです。これらは昭和初期、追分小学校の校長を務められた岩井博重先生の著された『江戸時代東信濃宿村の歴史」という本に詳しく紹介されています。
とにかく江戸時代の軽井沢は、中山道・浅間三宿によって成り立ち、追分の隣の借宿、そのまた隣の古宿などの部落は「助郷」などと呼ばれて、参勤交代の大名行列が通る時など、人馬・人足などに駆り出されたものと思われますが、江戸の末期、皇女和宮の東下りの頃を最後にさびれはじめ、明治・大正と進むにつれて次第に宿場は成り立たなくなっていきました。明治二十六年、信越線に汽車が走るようになったのが決定的でした。中でも追分は最もひどく、借金で首の回らなくなった一家が、夜中にこっそりと家を捨てて逃げ出す、いわゆる夜逃げが続出しました。住む人のいなくなった家の傷みは早く、寒い冬の真夜中に、雪の重みでつぶれる家が出るようになりました。「どどーん、と大きな音と地響きで、そりゃーこわかったよ」と、最後まで旅籠として残った脇本陣の主人、小川誠一郎さんが話してくれたことがあります。(荒井輝充「軽井沢を青年が守った 浅間山米軍演習地反対闘争1953」)
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