フランスにゴーシュロンを訪ねて/尾池和子

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 フランスにゴーシュロンを訪ねて                 
                              尾池和子

 三鷹在住は長いのですが、それまで博光氏のことは知りませんでした。介護保険制度が始まる年、訪問介護員養成講座を受講しました。修了して登録する時、フランス語ができるのなら、とケアマネージャーさんが大島さんのところへ組み合わせてくださったのです。
 伺い始めたころ、博光氏はゴーシュロンの『不寝番』を訳していました。気に入った詩を好きな時に訳し、楽しんでいる様子でした。ある日「これをまとめて、本にしようかな」と言われましたので、いまどきは著作権がやかましく言われますので、先方の許可を得ておいたらどうでしょう、と申し上げました。「いいよ、そんなことどうだって」と言われましたが、そのうち「じゃあ、書いてみるか」とゴーシュロンに手紙を書きました。自分は日本の詩人で、アラゴンの『ウラル万歳』を読んで以来、アラゴン、エリュアール、ネルーダ、マチャード、アルベルティらの詩を訳してきたという自己紹介を添えて。先方からは大変びっくりした、もちろん訳してかまわないという返事が来ました。手紙の詩人たちは、マチャード以外自分の親しい友人であり、よって詩の世界では私たちはすでに知り合いであるという、大変親しみのこもった内容でした。
 『不寝番』の何篇かが載った『民主文学』、『稜線』を送り、詩の内容についてのやりとりがあった後、ヒロシマの詩を併載した『不寝番』を送ったのは二〇〇三年初夏のことでした。表はブルーと内側は白のダブルカバーの装丁に、「美しい本!」と喜ばれ、同時に博光氏の詩を仏訳したいので送ってくれないかという依頼がありました。
 詩の訳について博光氏とゴーシュロンは同じ考えでした。「詩の訳は、その詩人と一緒になって一から創りなおすようなものだよ」(博光氏)、「直訳はもとの詩を歪めることがしばしばあるので、詩人として自由に訳してよい。それはその詩と等価値をもつ」(ゴーシュロン)。例えば「起きている+状態」が「不寝番」になり、「しるし」が「星」へ、「学ぶ+誠実」が「学ぶとは誠実を胸に刻むこと」(アラゴン)と訳されています。原文には無い動詞を加えることによって詩がわかりやすくなり、的確に伝わります。私は詩人とはこういうものか、とただ感心するばかりでした。

 二〇〇八年、パリの北西セーヌ川沿いのラ・フレットにある氏の家を訪問しました。モネの絵で有名なサン・ラザール駅から列車で約一時間、コルメイユ・パリジー駅下車、アルジャントゥイユからも近い場所です。
 ゴーシュロンは博光氏より十歳下の一九二〇年生まれですので、お会いしたときは八十八歳ころでしょうか。痩せ形で、よく召し上がり、口調もしっかりしていました。夫人と二人暮らしで、耳がかなり遠いゴーシュロンに、快活な夫人が耳元で通訳のように会話を補う様子は、とても仲睦まじくみえました。優しいおじいちゃまという印象でしたが、記念に写真を撮りましょうという時は、目が鋭くなり、やはり抵抗の詩に人生を捧げた詩人というイメージでした。
 赤いバラの咲く庭での食事、たくさんの本は言うに及ばず、フェルナン・レジェが描いたエリュアールの詩『自由』を始め、絵があちこちに飾られ、ゴーシュロンの肖像画や彫刻のある室内、二階の書斎の窓いっぱいに広がるセーヌ川の緑溢れる景色は素晴らしかった。
 ゴーシュロンは「幸福は、人生の詩だ」と言いました。彼の詩は博光氏が言う「状況の詩」で、星よ花よではなく戦闘的な詩です。幸福と詩が結びついたのは意外に思えました。博光氏の「たとえ状況の詩であっても、そこには希望がなければ」という言葉も思い出されました。
 私がお二方の交流の中で一番良かったと思うのは、中学生のころ『レ・ミゼラブル』の映画を見て以来、傾倒していたフランス文学、生涯裏切られることのなかったフランスという国、博光氏の詩が、他ならぬゴーシュロンの手によってフランス語に訳され、フランスの人々に読まれ、そのフランスの地に長くとどまることになったことです。
(六月十二日の講演の内容を要約)

(『狼煙』81号 2016年11月)

ゴーシュロン

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